2024年4月20日(土)

Wedge REPORT

2009年8月24日

麻生の祖父と鳩山の祖父の根深い対立

 戦後日本の最大政党は自由党であり、もともとその党首は鳩山一郎であった。しかし、鳩山が公職追放にあったため、吉田茂が急きょ党首の座に据えられたのである(46年)。

 しかしその後、吉田と鳩山は対立する。吉田は鳩山の公職追放を引き延ばすようGHQに働きかけた、という説もある。真偽はともかく、鳩山はそのように信じていたようで、両者が相手を公然と「悪者」と呼ぶような間柄であった。

 51年には、反吉田的な三木武吉、石橋湛山、河野一郎、そして鳩山一郎らが公職追放を解除され、52年には、重光葵を総裁に改進党が結党される。鳩山は自由党に復帰するが、そのおかげで自由党は、吉田派と反吉田派に分裂するのである。

 おもしろいことに、改進党の設立の目的は、「我が国の進歩的勢力を結集し、二大政党の基礎を固め、民主政治の運用を錯誤なからしむことを期す」ということであった。今日の民主党の存在意義は何かと問えば大方似たような答えが返ってくるであろう。「改革を推し進めるために、二大政党政治を生みだして民主主義を発展させるのが民主党である」と。

 その後、54年、造船疑獄によって民意は吉田内閣から離れ、吉田は自由党の中で指導力を失ってゆく。それを受けて、鳩山たち反吉田派は、自由党を離れ、改進党と合同して民主党を結成するのである。吉田内閣の総辞職につながる54年12月の内閣不信任案は、民 主党と左右の社会党によって提出、可決されたものであった。

自民党を誕生させた社会党の躍進

 このようにみると、戦後日本の保守政治は、吉田と鳩山の激しい対立と抗争によって幕を開いたといって過言ではない。何がかくも両者の激しい対立をもたらしたのだろうか。

 むろん、パーソナリティの違いもあるだろう。だが、やはり、親米英派であり、外交官であった吉田の体質と、アメリカの占領政策によって公職追放にあった戦前からの政治家である鳩山たちの体質の相違はいかんともしがたいものであったろう。鳩山にとっては、吉田の親米路線は、GHQの占領政策に媚びたものとうつり、占領政策からの脱却こそが求められると考えた。したがって、鳩山民主党の政策理念は「日本の自主独立」におかれ、政策目標は、自主憲法制定と日ソ国交回復におかれたのである。

 確かに、鳩山民主党と吉田自由党の対立は、それなりに鮮明であった。しかし、問題はその後である。吉田内閣総辞職の後に首相となった鳩山は、社会党の要請を受け入れて、早々と総選挙に打って出た。選挙結果は、自由党の大敗(199から112議席へ)、民主党の大勝(185議席)、そして社会党の躍進(左右あわせて156議席)であった。

 この結果、民主党は第一党にはなったものの、過半数は制することができない。自由党は凋落著しい。そこででてきたのが、自由党、民主党による「保守合同」であり、ここに自民党が誕生したわけである。

 したがって、自由党の誕生においては、吉田内閣の総辞職、55年総選挙による自由党の大敗、民主党の大勝が決定的な役割を果たしている。と同時に、左右の社会党の大躍進が大きな意味をもっていた。55年11月の保守合同は、その直前に行われた左右両派の社会党の統一という事業が決定的な意味をもっていたことも忘れるわけにはいかない。


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