青森県には独特のユーモアの文化的伝統がある。太宰治の小説にはほとんど落語のようなものが少なくないし、棟方志功の板画なども高級な漫画のようなおもむきがあると思う。小説家の石坂洋次郎の戦前の出世作『若い人』などはちょっと深刻な要素を含んでいたが、戦後の『青い山脈』がまるで漫才のような会話でベストセラーになって以来、ユーモア小説と呼んでいい青春小説を書きつづけた。しかもそれが片っ端から映画化されて、1950年代、60年代には青春映画といわれるものの主流は石坂文学調のユーモアあふるる明るい希望のあるものになった。豊かな社会になったいま、あの明るい青春というイメージはどこへ行ってしまったのだろう。
映画でも青森県出身には独自の笑いを作り出した監督たちがいる。まず川島雄三(1918〜1963)。1950年代ごろ、ときには生まじめな映画も作ったが、主に喜劇で才能を発揮した。しかもその発想がひとひねりもふたひねりもしたものが多いことで異色の存在だった。古典落語の「居残り佐平次」をフランキー堺に演じさせた「幕末太陽傅」が代表作であるが、比較的暗い内容の「洲崎パラダイス 赤信号」でも、不実な女に入れあげてすべてをなくした男が、腹が減って女を追う路上でついにへたばってしまうという、ヘンに滑稽な場面があって忘れられない。どの作品でも必ず自作のサインのように便所の場面があるというあたり、かなり偏屈なところもあったのかもしれない。
石坂洋次郎的な万事もの分かりのいい陽性のユーモアと、太宰治的あるいは川島雄三的な偏屈な暗さを内に持った笑いとの両方にあえて挑戦するようなユーモアの新機軸をうちだそうとして悪戦苦闘したのが、天才歌人から前衛劇作家・演出家、さらに映画監督になった寺山修司(1935〜1983)だと思う。彼は『家出のすすめ』という本を書いて若者を扇動し、本気で家出して田舎から上京して頼ってくる若者たちなどがいると、自分で引き受けて劇団を作り、大人から見ればイタズラか遊びとしか見えないような芝居をやり、映画を作った。内に偏屈な暗いものを持っていながら、それを感情で押し流すことをあえて拒否して、奇抜な遊びめいたお祭りさわぎを楽しもうとしたところが1970年代以後の若者たちに受けたのだった。「書を捨てよ町へ出よう」や「田園に死す」がそういう前衛的お祭りさわぎ映画の代表作であって、そこには奇抜なユーモアがいっぱいつまっている。
そう、お祭り騒ぎこそは、民衆の伝統において笑いとユーモアの源泉である。たぶん、日本列島では新開地の北海道は別として、北端の青森と南端の沖縄に、祭りの解放感はいちばん純粋に保持されているのかもしれない。石坂洋次郎や棟方志功の陽気さはまさにそれだが、だからこそ逆に「中央」への抵抗感から偏屈な才能も生まれやすいのかもしれない。