企業による不祥事のほとんどは、ひとりによって行われるのではなく、そこに関わる複数の人間によって、ひどい場合には企業同士の癒着によって行われる。先の鉄道会社による報告書漏洩問題では、“旧知”の馴れ合いによって本来あるべき公正さが保たれなかった。調査する側、される側の間で、不都合を隠そうという働きかけを突っぱねることができなかったことが原因である。
『葉隠』は、他人に引きずられて「転ばせられる」のは、覚悟が薄いからだと喝破する。そして、もしも突っぱねることができないなら、その人に近づくべきではないとも言っている。
人に乗せられない
日常生活にはよいことばかりはない。毎日毎日いろいろな決断を迫られる。決断とまでよばなくとも、いろいろな選択をしなければならない。選択とは、とどのつまり、善いものと悪いものとを選別することである。この選別はイエスとノーのどちらかでしかない。イエスというのは相手を傷つけないから、意外にたやすくできる。ところがノーの方はそう単純ではない。つまり、相手を傷つけてしまうことがあるからである。
人は誰でも他人からよく思われたいという欲望をもっている。だから傷つけそうなことはできるだけ避けたい。そこでノーという言葉が出てこないのである。それではどうするかというのが、ここでのテーマである。
決定覚悟薄き時は、人に転ばせらるる事あり。又集会咄の時分、気ぬけて居る故に、我が覚悟ならぬ事を人の申しかけ咄などするに、うかと移りてそれと同意に心得、挨拶もいかにもと言ふ事あり、脇より見ては同意の人の様に思はるるなり。
それに付、人に出会ひては片時もと思ひ、我が胸にあはぬ事ならばその趣申すべしと思ひ、その事の越度を申すべしと思ひて取り合ふべし。差したる事にてなくても、少しの事に違却出来るものなり。心を付くべし。
又兼ていかがと思ふ人には副(そ)ひ寄らぬがよし。何としても転ばせられ引き入れらるるものなり。爰(ここ)の慥(たし)かになる事は積まねばらなぬ事なり。
(現代語訳)
しっかりした覚悟ができていない時には、思わず他人に引きずられてしまう。また、集会などで話を聞いている時、ぼんやりしていると、思ってもいないことを、他人から話しかけられ、うっかりして、『いかにもそのとおり』などといってしまうことがある。はたから見ていると、同意見のように思われる。
それにつけても、人と出会った時、常に気をぬかないようにしなければならない。そして話を聞く時や、ものをいいかけられた時は、うっかりと乗せられないようにし、自分の納得できないことならば、その意見をいい、そのことの誤りを指摘しようと思って取り合うがよい。少しのことでも間違いは生ずる。気をつけなければならないことである。
また、前々から、どうもと思う人には近寄らぬがよい。どうしても乗せられ、引き入れられてしまうものである。ここのところがたしかになるには、経験を積まねばできないことである。