「2位では面白くない」と本格的に陸上競技に転向
天摩由貴 青森県生まれ。
無類の負けず嫌いで小さい頃から「私もやりたい、やりたい!」と姉や友人と同じことをやろうとする子だった。そんな天摩を両親は「やりたいと思う事はやってみなさい」と応援してくれた。もちろん生まれつき視覚に障害を持った天摩に心配がなかったわけではないが、それでも背中を押してくれた。
得意な科目は数学(算数)だが、好きな科目は体育だった。小さい頃から体を動かすことが大好きだった。
しかし、青森県の盲学校では1学年の在籍者は3~4名。ひとりもいない学年があったほど生徒数が少なかったため、「○○部」というような部活動ができる環境ではなかった。月ごとにフロアバレーボールやグランドソフトボールなどを行って、みんなで楽しむというのが中学時代までのスポーツ環境だった。
「私は中学まで八戸市(青森県)の盲学校に通って、卒業後、東京の筑波大学附属の盲学校(特別支援学校)に進学しました。入学してすぐにフロアバレーボール部に入ったのですが、約半年経った頃から陸上部の練習に参加するようになりました。その理由は、フロアバレーボールは地域ごとにルールが違って、全国大会がないと聞いたからです。好きなスポーツでも上の大会に出られないのはつまらないですからね。2つ目の理由は、1年の秋に全国障害者スポーツ大会に60m音競争で出場したのですが、2位でとても悔しい思いをしました。負けず嫌いなんですよね、それ以来陸上部の練習に参加するようになりました」
筑波大学附属視覚特別支援学校(以下、附属盲学校)の3年間は寮生活だった。高校生で親元を離れ寮生活を送ることに父親は反対したが、母親は「どう頑張っても親の方が先に死んでしまうんだから、早めに自立させたい」と、むしろ中学生の時から上京させたかったようだ。
部活動どっぷりの日々
本格的に陸上部に入部したのは、高校2年生からだ。以後、高校生活は部活動が一番の楽しみで、部活動を行うために通うようになったと言っても過言ではないような生活に変わった。
視覚障害者の陸上競技種目は、トラック種目が100m 200m 400m 800m 1500m 5000m 10000m。フィールド種目は走り高跳び、走り幅跳び、3段跳び、円盤投げ、砲丸投げ。そしてマラソンである。
「その中で私は100mと200mをメインに、400nにも出場したことがあります。高校時代の部活動では、『時間を守ること』や『ルールを守ること』、集団で生活や行動をするために必要なことなど、社会に出て必要とされることは、部活動や寮生活を通して学んでいきました」
また当時の天摩には「私が!私が!」という自分中心的なところがあった。その考え方や態度によく注意を受けた。「厳しいこともありましたが、社会に出て生きて行く上で必要なことばかり」と顧問の原田先生への感謝を忘れたことはない。
高校卒業後、天摩は日本大学の文理学部数学科に進学した。高校時代は体育の教員になりたいと思っていたが、視覚障害のため体育は断念して、「得意な数学で進学しよう」と数学科を選択。陸上競技を続ける意思も固めていた。ちょうどその頃、後に天摩と共に世界を目指す伴走者に出会う。同校の卒業生であり教員の近藤克之である。
「いまの私はパラリンピックに行けるレベルではありませんが、ロンドン・パラリンピックに出たいんです!」という気持ちを伝えたところ「よし、それなら伴走しよう」と近藤は即座に応えれくれた。
「陸上競技を続けたいと思っていたのですが当時の私の実力では日大の陸上競技部に入ることはできませんので、近藤先生と二人で練習していました。練習は週に5回です。平日は朝か先生の仕事が終わったあと1時間~2時間程、休日は朝から3時間程度練習していました」