部活動のレベルから世界へ挑戦
2009年当時、天摩にとってロンドン・パラリンピックは夢に近いものだったが、近藤と天摩はロンドンに出場するための目標として、2012年から逆算して具体的な目標を細かく立てていった。まずは2010年に広州(中国)で開催されるアジアパラを照準に、練習内容やそれぞれの時点で達成しなければならない目標を話し合いながら具体化したのである。そして当面の目標だった2010年の広州アジアパラでは、200m走で金メダルを獲得し、100m走でも4位入賞を果たした。
その日の陸上競技場は約3万人の観衆が詰め掛け、湧き上がる歓声は日本では味わえないものだった。
決勝には4人が残り、天摩以外は中国人選手だった。
近藤からは、いつも「試合は練習のように、練習は試合のように」と指導されてきたが……。
「私以外は中国人選手でしたし、アウェー感が強かったこともあり、とても緊張しました。この大会に限らず、私はどの大会でも緊張をなかなか上手くコントロールすることができなかったのです。『どうしてこんなに固くなってしまうんだろう』といつも思っていました。ですが、広州のアジアパラで金メダルを取ったことが自信となり、国内大会では必要以上に緊張しなくなりましたし、緊張をコントロールすることも覚えていきました」
「大学に入学してから2年近く記録が伸びず、苦しい時期が続きましたが、アジアパラで自己ベストが出て、それが日本記録にもなって嬉しかったですね。自分の力を出し切れた感が強かったから、より嬉しく感じたのかもしれません」
その2年後、師弟ふたりの目標だった2012年のロンドン・パラリンピックに出場を果たした。夢は努力次第で現実になることを天摩は示したのである。陸上競技の会場には、なんと8万人の大観衆が! 過去に体験したことのない異次元の熱気にあふれていた。
「上手く言えないのですが、競技場の異様な雰囲気を全身で感じました。あのときは近藤先生の方が見えているだけに緊張されていたと思います」と初めてのパラリンピックは、想像を超えた規模感だったと振り返る。
立ちふさがる世界の壁
天摩の出場種目は100m走と200m走だった。しかし、そのどちらも記録が伸びず、予選敗退を余儀なくされた。パラリンピックという大舞台の凄さをまざまざと見せつけられた気がした。
「ロンドンを目指して、練習して、実際にロンドンに出場して、世界と戦ってみて、自分なりに頑張ってはみたけれど、今の自分の実力では世界のレベルで戦うことはできませんでした。世界のトップと戦うためには、これまで以上の気持ちと覚悟を持って、4年後に向けてもっときついトレーニングをしていかなければなりません。ですが、私にはその覚悟ができず、このまま続けても中途半端になると感じました。それで引退しようと、先生に気持ちをお伝えしたところ……」
「自分のことは自分で決めればいい」と近藤は理解を示したものの「でもな」と続け、「今、日本記録は天摩が持っている。やっと記録が伸びてきて、本当に少しずつだけれど世界との差も縮めてきているし、これからのブラインド女子の短距離はおまえが引っ張っていかなければいけないと思うぞ」と諭された。
「先生はロンドンに行きたいという夢をいっしょに追い掛けてくれた恩師です。だから恩返しのためにも結果を残したかった。頑張って記録を伸ばさなければならないという気持ちもありました。それが競技者としての私の課題であることも理解していました」
しかし、覚悟がない以上、競技を続けても中途半端になりかねない。
近藤からは「タイムイズマネー。おまえはおまえの時間を使っているのだけれど、おまえが走るということは俺たち周りの人たちの時間も使っているということを常に忘れないように」と言われてきた。
自分だけで練習ができるわけではないのだ。時間は無駄にできない。天摩は悩んだ末に「今の自分ではリオで結果を出すことなどできないだろうし、先生にもご迷惑を掛けてしまう」と引退を決意した。