杉並木の石段は苔むしてワニ皮模様になっていた。石段に歯朶(しだ)が生え、虻(あぶ)が飛ぶ。山門からさらに降りると、石造仁王が2体あった。阿吽の仁王で、筋肉モリモリの日本人短足力士といった様相だ。寺伝によると文化11(1814)年作で、銘はない。
野ざらしの仁王に睨(にら)まれたから、こちらも睨み返してやった。風雪をあびてざらざらの肌である。念力を入れて大相撲力士として土俵に上げてみたい。
国東半島にはこういった石造仁王が130体以上ある。仁王は鎌倉時代から造られはじめ、江戸時代後半になると、村全体の守護神として造立され、奉納された。
両像ともに腹を突き出している。山頭火は、この仁王像に見守られて、石の参道を登っていったのであろう。
山頭火は大飯食らいの行乞僧であった。行乞する山頭火が考えていることは、その日いくらのお布施を貰い、なにを食べるかということである。無銭旅行だから、貰った金はすぐに底をつく。また貰う。
得度したのは曹洞宗(熊本市・報恩寺)であるから、禅僧が天台宗寺院にお布施を貰うわけにはいかない。けれど母の供養として、とぼとぼとこの石段を登っていった。剛直な仁王像に山頭火の行乞姿が重り、なんだかこちらも山頭火の気分になった。
そこかしこから吹いてくる風が心地よい。石段を見上げると、石段の奥の闇が深く、石段すれすれに蝶が飛び、山頭火の句「てふてふうらからおもてへひらひら」が頭に浮かんだ。
両子寺から文殊仙寺(もんじゅせんじ)までは10キロほどで、黒い森の細い山道をくねくねと曲る。案内標識は「落石注意」と「頭上注意」ばかりで、なるほど道に石がごろごろと落ちている。道に迷って成仏(じょうぶつ)という里に出た。よりによって成仏とは、ホラー小説に出てきそうな地名である。バス停があったので時刻表を見ると1日1本であった。
文殊仙寺は文珠山(珠の文字が違う。標高616メートル)中腹にある修験の寺で、寺伝では大化4(648)年、役小角(えんのおづぬ)によって開基されたという。「大化改新」の3年後である。役小角は日本修験道の開祖で、「呪術を使い、鬼神を子分とした」と『続日本紀』にある。「大宝元(701)年には空を飛ぶ技術を手に入れた」(『日本霊異記』)という。飛ぶときは鳳凰(ほうおう)のようであったという伝説の人物である。讒言(ざんげん)により捕らえられて伊豆に流された。おおよその推定では舒明(じょめい)6(634)年ごろの生まれである。
文殊仙寺が開基されたという大化4年は、役小角は14歳前後で、まだ修行中の身である。聖徳太子(574~622年)より60歳ほど年下である。
とこまかい計算をすると、いささか、話がややこしくなるのだが、ようするにやたらと古い寺であることはわかる。ちなみに天台宗の開祖最澄(さいちょう・767~822年)が空海とともに中国へ渡り、比叡山に草堂を建てたのは延暦4(785)年である。