「最初は資材運びの軽作業でしたが、筋肉がついてくると50キロくらい担げるようになる。早く運べば早く終わって、時間ができたら足場の組み方を見に行ったり、ほかの仕事にも挑戦できるからがんばりました」
大阪では最大手の鳶の会社だったので、入る仕事はみんな大きな現場だった。
「どんどん仕事を覚えて、できなかったことができるようになる。鳶の面白さに取り憑かれてしまって。2つ目の会社で入った大阪ドームの現場で一緒に仕事をした人が、あの梅田スカイビルを建てた鳶だったと知った時には興奮しました」
3年目。めきめきと腕を上げ、仕事場も空の上へ上へと伸びていた多湖に試練が訪れた。
1997年11月5日。午前6時40分。多湖は21歳の仲間と2人で、トレーラーに積まれた鉄骨柱にワイヤーを掛けて移動させる作業に携わっていた。その時、クレーンのオペレーターの操作ミスで積み荷が旋回し落下した。一瞬の出来事は、多湖の2メートル先にいた仲間の命を押しつぶし、多湖に消せない痛みを残すことになったのである。
「ありえないことが起きた。みんなは大丈夫だ、信じろと言うんだけど、怖くて仕事が思うようにできなくなってしまって、会社を辞めました」
自らの意思で生きる
多湖には一度、鳶から離れた時期があったのだ。どこか遠くに行こうと立ち寄った旅行代理店で、衝動的に航空券を買い、東南アジアからスペインまで1年かけて旅をした。いでたちはニッカボッカに地下足袋。鳶から逃れる旅でも、自分は鳶だと衣装で叫んでいるような多湖の心の、受け止めきれない揺れが感じられる話である。
「いろいろな人と出会ったし、いろいろなことを考えました。自分の交通事故のことや仲間の死、生きている自分。やっぱり日本に帰ってからの自分は変わったと思います」
一つは、再び鳶の現場に戻ったこと。もう一つは、情報を発信する鳶になろうと決めたこと。
「自分は生かされたのなら、これからの生を自らの意思でしっかりと目標を立てて生きたい、ただ何となく毎日を生きるのはイヤだって思いました」
友人に誘われてリハビリ代わりに仕事を始め、面白いから頑張ってきた鳶から、目標をもち腹をくくってもう一度鳶になる。目標は、東京で建設されることが決まった東京スカイツリーに鳶としてかかわることと定めた。そのためにできることはすべてやる。
大阪から東京に移り住み、どこのゼネコンが請け負うか情報を集め、そこに参加できる鳶の会社に入ってチャンスを待つ。腕がいくらよくても、人間性が今イチだとみんなに嫌われて仕事に加われない。それならほかの人から応援してもらえるような人間になろう。そのために、毎日ICレコーダーを自分に取り付けて、自分がどんな言葉を発しているのかを客観的に調査し、イヤな自分を直視して人間性の改造に取り組みもした。そして、その驚くばかりの努力が功を奏し、東京スカイツリーの現場に参加することができた。
もう一つの、「語る鳶」への決意は、独特の美学をもつ無口な職人の多い世界では思いのほか抵抗の多い挑戦のようにも感じられる。