作家の火野葦平氏は、かつて「ふく(魚の王)」と題した詩に、
ふぐを「日本一魚の王よ」「その味はまた世界一」と褒め称えています。
わたしたち日本人を魅了してやまないふぐのあれこれを探ろうと、
大阪は岸和田市にふぐ博士として知られる北濱喜一さんを訪ねました。
(本記事は、「ひととき」2009年11月号特集からの抜粋です)
大阪府岸和田市。だんじりで有名なこの町の一角に、世界で唯一の「ふぐ博物館」がある。その創設者は、大正2(1913)年からこの地に続くふぐ料理店「喜太八」の2代目にして、ふぐの研究一筋60年という北濱喜一さんである。
「日本人がいつからふぐを食していたのか。はっきりした記録はありませんが、ふぐの中には、同日同時刻、波打ち際に集まって産卵するものもいます。素手で簡単に獲れるわけですから、おそらく漁具などのない時代にもたくさん食べていたはずです」
事実、縄文時代の貝塚からは、ふぐの化石が多数出土している。かの『魏志倭人伝』には、日本の人々が「好んで魚鰒(ぎょふく)を捕え、水深浅と無く、皆沈没して之を取る」とあり、水の深さも気にせず、積極的にふぐを捕獲する姿が描写されている。
文献の記述では、日本最古の辞書といわれる平安期の『和名抄』には「布久(ふく)」または、「布久閉(ふくべ)」の名で、ほぼ同時代の医書『本草和名』にも「鯸(ふく)、和名布久」として登場。布久は「ふくろ」でふくれることを現し、「ふくべ」は、ひょうたんを意味することから、どの呼び名もふぐのふくれた様子や、丸みのある外見からついた名であることは間違いないようだ。
「本来、ふくと言うのか、ふぐと言ったのか。古い文献は濁点を書かないこともありますし、確かなことは言えませんが、下関で今も『ふく』と言うのは、福につながると縁起をかついでいるんでしょうな」
北濱さんによれば、長崎県の「がんば」「がんばち」、香川県の「こっきん」「ふくと」など、ふぐの呼び名は全国にあり、日本人が広くふぐ食をしていたことがわかるという。