賛否両論のふぐ食史
それほど身近に親しまれてきたふぐだが、戦国時代には、豊臣秀吉によって「河豚食用禁止の令」が出される。朝鮮出兵の文禄慶長の役(1592~98年)の頃の話で、出兵のために肥前国名護屋(現佐賀県唐津市)に集まった戦国武士たちがふぐを食べて命を落とすことが多かったためだったと考えられる。
やがて平和な江戸時代に入ると、日本の食文化は格段に発展した。産物の流通が盛んになり、各種グルメ本が出版される。しかし、ふぐに関しては、各藩が食用禁止とし、取り締まりをした。特に厳しかったのは徳川親藩、中でも尾張藩では、ふぐを売買したものは(禁固刑)5日間、貰い受けた者も押込3日間という処罰を決めており、古川柳に「河豚喰わばわが身の(美濃)終わり(尾張)名護屋ふぐ」と詠まれた。長州藩はさらに厳しく、家禄没収、お家断絶の処罰が設けられていたほどである。
旅を愛し、各地の食文化にも接したはずの松尾芭蕉は
「ふぐ汁や鯛もあるのに無分別」
と、ふぐを悪食と断言している。
しかし、その禁制も美味いものに目がない庶民にはあまり関係がなかったようで、実際にはふぐは盛んに食されていた。小林一茶は、芭蕉とは対照的な句を残す。
「鰒喰(くは)ぬ奴には見せな不二の山」
興味深いのは、今もふぐの一大消費地である大阪とふぐの関わりである。
「大坂は、かなり目こぼしがあったんですな。それというのも、大坂は商業都市で、お上は商人からの上納金が欲しい。あんまり庶民を締め上げても困るんです。もともと大坂の海は、魚庭(なにわ)と呼ばれて、鯨と鮭以外はなんでも獲れた。ふぐも大いに食されています。ただし、さすがにおおっぴらにはできないから、隠語を使った」
よく知られている隠語が「鉄砲」で、「当たると死ぬ」とのひねり言葉ではあるが、ふぐの刺身は「鉄砲の刺身」で「てっさ」、ふぐちりは「てっちり」として定着。今に至る。
幕末ともなれば、幕府の統制も緩み、各藩もふぐの取り締まりどころではなく、ますます堂々とふぐ食が盛んになった。特に倒幕の主役となった長州出身の面 々は、維新後、中央に進出して高官となり、郷土の食文化を自慢する。ふぐ独特の薄造りの刺身は、明治時代に山口県の料理店「大吉楼」の主人が考案したとい う説がある。皿の文様が透けて見えるようにごく薄くそいだ刺身を、菊や牡丹、鶴のように美しく盛り付けた薄造りは、長年、悪食のレッテルを貼られたふぐの イメージを一変させたに違いない。凝った薄造りに始まって、ちり鍋など時間をかけて食す間に、さまざまな会談が行われたのである。