●では、眠れなくなる前に、先生のこれまでを振り返りたいのですが。
――出身は長野県。八ヶ岳の裾野、標高1200mぐらいにある、原村というところで生まれた。親父は百姓で、わしは8人きょうだいの末っ子。原村にいたのは中学生まで。諏訪清陵高校に入学するときに、近くの町に出て下宿生活を始めた。この学校はちょっと変わっていて、90分授業で一日4コマ。決まった教室はなく、授業ごとに先生の教室に移動して受けるというスタイルだった。
●この頃、親御さんも含めて、禅や仏教との関わりは?
――なかったね。父親も、典型的な信州ふうの理屈こきで、進取の気性には富んでいたかもしれんが、信仰心なんかなかった。わしが小学生のときに死んだ。ただ、うちの前には寺があって、母はそこの檀家だった。父と違って、信仰心はあったほうだろう。わしも、よく寺の境内でチャボを追いかけたりして遊んだな。
高校の初めまで、成績はどの教科でもそれなりに優秀だったよ。って、倅に自慢したら、信州に帰ったときに昔の通知表が屋根裏から出てきてな。「漢文が2とはどういうことですか?」と倅に詰問された。10段階評価で2。いまは漢文ばかり読んでいるが、当時は苦手だったんだ。その漢文の先生に、サルトルを読めと言われて、よく読んだ。サルトルなんか読んでたら、すべてがバカらしくなってくるわな。2年生ぐらいでもう全然勉強しなくなった。
東京から来て下宿生活をしていた悪友がおってな。よくいっしょに飲みにいったもんだ。東京から来た若い教員ともよく飲んだ。当時はウイスキーが主流。この悪友は哲学志望で、その影響で、わしも内容はわからないのにカントやらニーチェやらよく読んだよ。
●その後、京都の大学に進んだのはどうしてですか?
――大学になんか興味はなかったが、その悪友がいっしょに受けないかと言ってきてな。3年の頃までは、どこでも受かるだろうと思っていたが、結局どこも受からなかったから、浪人した。東京で下宿して。
下・お堂の中には「だるま」がずらり
一浪後、唯一受かったのが同志社大学だった。ラグビーが強いというイメージはあったけども、どういう大学だかまったく知らなかった。行ってみたらミッション系だった。その頃、なにも考えてないやつや特に取り柄のない奴が受けるのは経済学部だった。わしももちろんその口で、特にこだわりもなく経済学部を受けて入った。
●どうやら、大学進学も偶然に近かったようですね。
――まあ、そうかな。同志社に行くことが決まって、友だちが京都で宿を探してくれたんだけども、母がわしの荷物を送ったのは、そこではなく、京都の寺だった。わしの今後を心配して、実家の前にあった寺の和尚に相談していたんだな。「あの子は好き勝手させたら大変なことになる」と言われて、和尚の縁のあった寺に住むよう手配していたんだ。それが、花園大学からもほど近い法輪寺。通称、達磨寺だな。