「私は12年前に足を失ったけど、いつも考えているのは9月11日の同時多発テロのことだった」
人生の数奇な巡り合わせはメリッサにも訪れた。彼女がメダルをとったのは、奇しくも9月11日だったのだ。
イランやアフガニスタンに派遣され、戦場で地雷をふみ、足を失うなどした元兵士はブラッドリーやメリッサだけではない。英国では3人、オランダでは2人、アイルランド、イタリアから1人がリオ大会に出場している、アフガニスタンで負傷したイタリアのモニカ・グラジアーナ・コントラファット(35)は前回ロンドン大会でのパラリンピアンの活躍を見て、スポーツを始めたのである。「9・11」がなければ彼らは決して、パラリンピアンになることはなかっただろう。
もともと、パラリンピックの原点は1948年に英国のストーク・マンデビル病院で行われたアーチェリー大会だった。折しもその年、ロンドンで五輪が開催されていた。病院には、第二次世界大戦で負傷した兵士が入院しており、兵士のリハビリのために行われたのである。
その後、ストーク・マンデビル大会には他の国の負傷兵士も参加し、国際大会へと発展。64年に五輪が行われた東京大会から名称を「パラリンピック」に変え、今の形に至ったのである。イラクやアフガニスタンに派遣された兵士や元兵士の参加は、パラリンピックの原点回帰とも言えなくもない。
子供のころに孤児院で過ごした壮絶な過去
もう1つ以外と知られていない事実がある。それは生まれてすぐに孤児院に預けられたアスリートが多いことだ。先天性の重度の障害を抱えて生まれ、親が将来を悲観して、子供を手放さざるをえなかった環境が背景にあることは想像に難くない。その後、欧米の比較的裕福な家庭に養子として引き取られ、障害者スポーツの世界で代表選手の実力をみにつけるまでになったのである。
米国代表のタチアナ・マクファデン(27)は激動の国際情勢の中で、数奇な運命を過ごした。1989年、ソ連時代のレニングラード(現サンクトペテルブルク)で下半身に先天性の障害を持って生まれた。ソ連崩壊末期、困難な暮らしを強いられた実母は娘を孤児院に預けた。タチアナは6年間、この施設で育てられた。
「医師から命はそう長くないといわれた」
米国の育ての親で、障害者のための政府機関委員を務めているデボラ・マクファデンさんはタチアナを養女として迎え入れたときのことをそう振り返った。
タチアナは米国に来るまで一度も医者の治療を受けたこともなかった。「両手を足のように使い、移動していた」という。
体力作りのためにスポーツを始めた。「その日から人生が変わった」。頭角をめきめきと現し、15歳の時にパラリンピック・アテネ大会に初出場した。