タチアナは米国のパラリンピアンの顔となり、障害者スポーツの普及にも貢献した。障害者が健常者のスポーツ大会に出場できることを定めた新法には「タチアナ法」との別名がついた。
2014年、ロシア南部ソチで冬季パラリンピックが開かれた。彼女は超人的な身体能力をいかし、クロスカントリー座位競技に挑み、見事に代表選手に選抜。ソチには実母が応援に駆けつけ、娘の激闘に「誇りに思う」と語った。
タチアナは「これが私がずっと夢に見ていた瞬間だった。競技中、苦しい時、家族のことを思った」と語った。
リオ大会は夏冬併せて5度目の出場となる。これまでの4大会で計11個のメダルを獲得した。5種目の世界記録を保持し、リオでは100メートルからマラソンまで7種目に出場。コーチは米メディアに「実力を見れば7冠をとっても驚かない」と語った。
国際パラリンピック委員会(IPC)のクレーブン会長はこう語った。
「米国中でタチアナのことを知る機会が増えるだろう。大統領選のことを忘れるくらいに」
チェルノブイリで生まれ、親に捨てられた選手も
米国代表で自転車競技に出場したオクサナ・マスターズ(27)にも壮絶な過去があった。1986年に原発事故が発生したチェルノブイリ(ウクライナ)の近くで足に障害を持って生まれた。母親は放射能が原因だと信じ、生後すぐに孤児院に預けられた。
彼女は当時をこう振り返った。
「孤児院はとても貧しかった。食糧さえこと欠き、腹一杯食べたことはなかった。暴行や性的虐待もあった。私はもうたくさんの思い出を消し去った。ただ言えるのは、母親が来るのをいつも待っていたことだ」
7歳の時、米国の里親に引き取られた。そうして、やはり障害者スポーツの世界へと入ったのである。
今大会、タチアナやオクサナのように孤児院で育った経歴を持つパラリンピアンは少なくとも10人いる。彼らは自らの障害を乗り越え、自分の過去を断ち切って、パラリンピックでの金メダルを目指したのだ。
彼らが世界の檜舞台で活躍する姿は、今もなお戦争や貧困で苦しむ人たちに勇気を与える。彼らのメンタルの強さは誰にも負けない。4年後の東京大会でも出場すれば、きっと表彰台に立って、彼らの波瀾万丈な生涯に光があたるだろう。
ストーク・マンデビル病院で傷痍軍人たちを治療していたルードヴィッヒ・グットマン医師はこういった。「失ったものを数えるな。残されたものを最大限に生かせ」と。
壮絶な人生を送ったパラリンピアンはまさにこの言葉を体現しているのである。
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