春屋宗園賛
京都表千家不審庵蔵
――30歳を過ぎて田舎から出てきて、一代で天下を掴む画家になるとは、等伯はよほど才能があったのでしょうか?
松嶋氏:もちろん才能はありましたが、個人の力だけでこれほどの成功を収めることはできません。等伯をバックアップした有力者がいたのです。能登から家族と筆だけを携えて上洛した等伯は、当初、画壇に何の足がかりもありませんでした。彼は法華信者だったので、そのつながりから日蓮宗の高僧や信者である武将、町衆と関わりを持ちます。
また、千利休や大徳寺の僧侶らの肖像画を描くことで彼らと交わるようになります。権力者の肖像画というのは、社会的・政治的な立場が揃わないと描くことができなかったのですが、等伯は、それを戦略的につくり上げ、一大プロジェクトで周辺を固めました。そうして出来た強力なバックアップは、やがて大徳寺三門の天井画や、智積院〔ちしゃくいん〕の「金碧障壁画」誕生へと導いていきます。
――大徳寺三門の天井画というと、京都画壇に等伯の名を知らしめた作品ですね?
松嶋氏:大徳寺というのは室町時代以来、狩野一族の絵師が障壁画を制作しており、まさに狩野派一門の牙城だったんです。ところが、天正17(1589)年、豊臣秀吉の茶頭・千利休が大徳寺三門の増築部分を寄進すると、その三門の上層に天井画と柱絵などの壁画を描く仕事が等伯に任されるのです。等伯を推したのが利休なのか、大徳寺塔頭〔たっちゅう〕三玄院〔さんげんいん〕の住職、春屋宗園〔しゅんおくそうえん〕なのか、日蓮宗の僧侶なのか、それはわかりませんが、彼を押し上げようとする人がいたことは確かです。
――そして、その数年後に、豊臣秀吉から金碧障壁画の制作を依頼されるわけですね?
松嶋氏:そこに至るまでに、等伯と永徳の競い合いにまつわる興味深いエピソードがあります。永徳は、等伯よりも4歳年少ですが、織田信長、豊臣秀吉に仕え、さらに宮中の貴族とも密接にかかわって、さまざまな殿舎の障壁画に筆を揮っていました。そんな永徳に戦いを挑むように、等伯は、天正18(1590)年、御所の対屋〔たいのや〕の障壁画の受注をめぐって競い合うのです。一度は等伯の運動が功を奏して襖絵揮毫の受注を得るのですが、永徳とその子、光信が宮中に申し出たことで阻止されてしまいます。
しかし、その2ヵ月後に永徳が亡くなり、翌年の天正19年に秀吉の子、鶴松が死ぬと、鶴松の菩提寺で京都一の寺といわれた祥雲寺〔しょううんじ〕の障壁画制作を託されることになるのです。現在、京都の智積院に伝わる金碧障壁画「楓図」が、秀吉から制作を依頼されたというその障壁画です。