2024年12月7日(土)

今月の旅指南

2010年3月4日

名門狩野家の4代目御曹司、狩野永徳の存在をも脅かした天才絵師・長谷川等伯。国宝の「松林図屏風〔しょうりんずびょうぶ〕」や金碧〔きんぺき〕障壁画「楓図」など、傑作誕生にまつわる秘話と、ドラマチックな彼の生涯について、東京国立博物館学芸企画部の松嶋雅人さんにお話をうかがった。
――長谷川等伯という画家について簡単に説明していただけますか?

松嶋氏:桃山時代に活躍した天才絵師で、出身は能登・七尾〔ななお〕(石川県)です。はじめ「信春〔のぶはる〕」と名乗り、七尾時代は主に仏画を描いていました。しかし、30歳を過ぎて上洛し、肖像画・水墨画・花鳥画など多岐にわたる画題を、時に精緻に、時に豪放に描きわけ、豊臣秀吉に重用される時代の寵児となります。代表作の「松林図屏風」(国宝・東京国立博物館蔵)は水墨画の最高峰といわれています。

 

 

 

 

長谷川等伯 国宝 「松林図屏風」 16世紀 東京国立博物館蔵

 

 

 

 

 

 ――等伯と狩野永徳は“宿命のライバル”といわれ、何かと比較されますが、なぜそういうふうに言われるのですか?

松嶋氏:等伯と同時代を生きた永徳は、100年以上の歴史をもつ名門狩野家の4代目御曹司。一方の等伯は、能登の七尾から30才を過ぎて上洛し、実力でのし上がった、いわば成り上がり絵師。対照的な2人なんですね。この時代は狩野一門が全盛の時代でしたが、等伯は永徳に対して果敢に挑んでいきます。


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