2024年11月22日(金)

ヒットメーカーの舞台裏

2010年4月26日

 パンジーの遺伝子で糸口を掴んだものの、品種によってまったく反応しないバラもあった。それまでの知見を元にした分析手法で、数百種のバラのうちから40種を選択。さらに実験を重ねて青い花が咲く品種を絞り込んでいった。田中は元々の色が「ピンク系のものが反応がよかった」と明かす。

 こうして02年秋にデルフィニジンが花弁色素のほぼ100%を占める花を咲かせた。量産技術へのメドもつけて成果を発表したのは04年であり、この時は内外で大きな反響を呼んだ。しかし、ここから市販化まで、世間に青いバラの存在を忘れさせるほどのプロセスが待ち構えていた。

立ちはだかったカルタヘナの壁

 国連で00年に採択された生物多様性に関する「カルタヘナ議定書」への対応だ。遺伝子組み換えによる植物を規制するもので、野生種や土壌に影響を及ぼさないことを実証する必要があった。栽培農家や住民の理解、協力を得ながら念入りな作業を進めた。農水省と環境省による商業生産の認可がおりたのは08年だった。

 一見、研究者然とした田中だが、取材者の笑い声が絶えないほど冗談も交えながら、難しい話を平易に説明する。だが柔和な人当たりとは裏腹に、この20年間「後には退けない」ので、「できない理由を探さないこと」を肝に銘じてやってきたという筋金入りだ。

 これで田中の青いバラづくりが終わったわけではない。「アプローズ」は淡い紫がかった青色だ。最近、英国の科学誌がそうした点を指摘したこともあって、田中は「じゃあ、もっと濃い青にしてやる」と燃えている。

 市販に当たり、サントリーは「アプローズ」に「夢 かなう」という花言葉を付けた。不可能を可能にしたこの花に相応しい言葉だ。いくつかの案から決めたのは経営トップだった。花言葉は田中への賛辞であると同時に、社員に同社伝統の「やってみなはれ」という挑戦魂を持ち続けてほしいとのメッセージでもあるのだろう。(敬称略)


メイキング オブ ヒットメーカー 田中 良和(たなか・よしかず)さん
サントリーホールディングス 植物科学研究所長

写真:井上智幸

1959年
兵庫県生まれ。小学1年生のときの担任が読書を推奨したので家で本を読むことが多かった。この習慣は今でも続いている。中学の頃から生物学を志そうと思っていた。
1980年(21歳)
大学の研究室に配属。1年に1回くらいしかない感動を覚える結果を得るため、また、世界のどこかで同じ研究をしている競争相手に勝つため、日々努力を積み重ねることが重要だと知る。これが現在でも基本スタンス。
1983年(24歳)
サントリー入社。入社時研修では同期社員となかなか話が通じずカルチャーショックを受ける(自分が世間とずれていたようだ〈本人談〉)。配属後は、役に立つタンパク質を酵母で生産させる研究開発に没頭。実験中心の日々を送りつつも、合間に熱心にテニス。
1990年(31歳)
青いバラのプロジェクト開始。その後20年も取組むとは思いもしなかった。
2010年(51歳)
いろいろあったが多くの人たちに支えられ、アプローズを発売することができて感謝している。でも、今でも咲いてきたバラが全部真っ白という悪夢を見ることがある……。

◆ 「WEDGE」2010年5月号

 

 


 

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