言葉の前に、両者の間には楽譜というバイブルのようなものが存在する。楽譜をどう読み込んでいくか。「メゾフォルテ」と楽譜に記されていても、何デシベルの音を出せとは書かれていない。「少し強く」の少しとはどのくらいなのか。微妙な感覚でしかない。指揮者の佐渡は、その感覚を引き出すために演奏者の前に立つ。時には微動だにせず、時には指揮棒を置き、時には指揮台から転げ落ちそうになるほど激しく全身を使って、自分の思いを表現する。
「リハを通して思いが伝わり、お互いを認め合えた時、それぞれの想像力がいい相乗効果を生み、本番で奇跡のような瞬間が訪れる。一糸乱れず正確に同じ方向を向いていればいいというものでもなくてね。たとえば集団の写真を撮った時に、舞台の書き割りのセットみたいに平面的になってしまったらダメなんです。必要な時にはパン! とひとつになり、ある時には自分の音はこういう音なんだと主張して、それを受け取った者がその音に感応して返すという交感が自在にできるのがオーケストラの理想。そこから音楽の奥行きとか深みとか色合いが生まれる」
指揮者の気と、それぞれの楽器の演奏者の気がうまく循環した時には、光が差すような、呼吸をしているような、自然な流れが生まれ、それがオーケストラと聴衆との間にも魂の交歓を生んでいく。それは指揮者にとって至福の時であり、その瞬間のためならどんなことでもできるという。
「ロックやジャズも面白いけれど、オーケストラの魅力は、大編成の音を作る集団だということ。生身の人間が目の前で空気を振動させて、それが人に伝わっていく。どんな時代でもどんなに文化的な背景が違っても、この喜びは共有できる。それが音楽のすばらしさで、それを感じてほしいんですよね」
佐渡の話を聞いていると、はるか遠くに重々しく存在していたクラシック音楽が、とても身近で人間的に思えてくる。活動拠点をウィーンに移すまでは、テレビ番組「題名のない音楽会」の司会を7年間務めていたので、クラシックファンでなくても佐渡のことを知っている人は多い。佐渡の親しみやすい人柄に誘われるようにクラシックファンになった人も相当いる。「サドラー」と呼ばれる、佐渡の演奏会を追っかけるファンたちが話題になったほどだ。