地元の公立高校の音楽科から京都市立芸術大学に進学したが、専攻はフルート科。指揮者を本格的に意識したのは2年になった頃だった。小学校の卒業文集に「オペラ歌手になるかベルリン・フィルの指揮者になる」と記しているように、漠然と指揮者になりたいという思いはあったようだが、それまではクラシック音楽という大きな海を自由に泳いできた。20歳を前に、たくさんの人と一緒に音楽を創り上げていくことが何よりの喜びで、そこで自分を表現できる指揮者こそが目指したい道だと気づいた。佐渡の言葉を借りれば「指揮をして飯を食っていくのが最大の夢になったんや」ということになる。
しかし、佐渡は指揮科に転科することなくそのままフルート科を卒業している。指揮は独学。まず腕の動かし方を習得するというより、見よう見まねでほとんど本能に任せて振っていたと当時を振り返っている。ほとばしる音楽への熱い思いをぶつける無手勝流で、在学中から、大学のオーケストラなどアマチュア楽団や、ママさんコーラス、カラオケの伴奏やテレビドラマの音楽など、いたるところで指揮棒を振ってきた。
世界の舞台へ
指揮さえできれば幸せと思っていた佐渡に大きな変化が訪れたのは、1987年。関西二期会の副指揮者をしていた先輩が、ある日、小澤征爾とバーンスタインのサインを見せてくれた。
「オーケストラがやって来た」というテレビ番組で初めてその姿を見て、中学生で演奏会を生で聴き、似た服を買ってもらうほどあこがれていた小澤征爾と、初めて自分の意志で選んだレコードのバーンスタイン。どこに行ったら会えるのかと聞いた佐渡に、アメリカのタングルウッド音楽祭に聴講生として参加すればいいと先輩は教えてくれた。調べてみたら、聴講生は見学だけだが、オーディションに受かれば実際にレッスンが受けられて、奨学生になれれば指揮をさせてもらえる特典まである。指揮ができると知って燃えた。これまで国内の指揮者コンクールを受けても結果は芳(かんば)しくなかったが、挑戦してみようと、履歴書と大阪大学のオーケストラを指揮したビデオを送ってみた。
「おそらく履歴書はゴミ箱直行だったと思うけど、審査員のひとりがビデオを見て、小澤先生のところに届けてくれて、思いもかけずに奨学生になれたんです。『きったない棒を振るけど、いい音がするんだよね』と小澤先生がおっしゃっていたと、後で聞きました」
佐渡の本質的な音への感性と音楽への情熱を最初に感じ取った人が、小澤とバーンスタインだったというわけだ。翌年からは、タングルウッドで指導を受けたバーンスタインのヨーロッパツアーに同行。地元京都からもあまり出たことがなかった青年は、一気に世界の空気を全身で吸収して、89年のブザンソン国際指揮者コンクールで優勝。日本より先に世界にその名を知られることになったのである。