2024年7月16日(火)

WEDGE REPORT

2017年6月24日

コカイン経済 1980年代後半

 10年後にボリビアの熱帯雨林に囲まれたサンタクルス州に住んだ。コロンビアの麻薬王パブロ・エスコバルの全盛期である。ボリビアのコカ葉の生産も拡大し、最大の輸出農産品となっていた。

コカの葉は麻薬ではない?

 コカ葉は零細農民にとっては、死活的な生活基盤のひとつだった。アメリカ主導の援助機関がコカ葉から他の換金作物への転換を図ろうとしてもなかなかうまくいかなかった。コカ畑を野菜畑に転換した農民たちは、値崩れから大きな損失を蒙ったことがあった。一方、コカ葉の生産を続けたものは、生活に困ることはなかったのである。

 州都サンタクルスの街にもコカイン御殿が集まっている地域が存在していた。精製されたものは、日本では末端価格、キロ5000万円以上にもなる。南米の生産地価格からすると多分数百倍であろう。

 公園の木陰でぼーとしていると、時々悪の道に誘われた。いわく、「私は航空会社を興したけど、君もいっしょにやらないか、すぐに社長になれるよ」とか、「ちょっとアメリカまで持っていってもらえばいいんだよ。日本人なら疑われないだろう。しかも援助の仕事についているなら」とか。

 もし南米の都市の貧民として生まれていたならと仮定すると、その誘惑に抗し切れなかったかもれない。一気に勝負をかけ、一度は財産を作ったかもしれない。しかしその後は、コカインマフィアの抗争に巻き込まれて、銃弾で蜂の巣になるのが落ちである。官民を問わず、麻薬密売人の最後は刑務所か、銃弾による死が待っている。一時の絶頂を味わう短き人生というわけだ。

コカインを取り締まってみた

 「麻薬に係ったり、それを吸引したものは、即刻解雇される。それだけではなく犯罪行為として摘発されることになる。 人事・総務部」

 私は労働者が読む掲示板に、警告書を張った。仕事の現場である小村のチョチスにも売人(ピチカテーロ)が入りこんできたのである。300人以上の都会から来た人間が、単調な村の生活と激務のストレスにさらされていることに目をつけたのだろう。いずれにしろ、辺鄙な村にまで出稼ぎにくるのだから、都会で食いはぐれたケチな売人であることは想像に難くない。あるいは労働者のなかに友人がいるので、遊びがてら旅費を稼ごうという魂胆だったのかもしれない。 

 ここでいう麻薬は無論コカインで、禁じているのは、精製された白い粉を鼻から吸い込む行為である。コカ葉そのものや、それを丸薬のように固めたものは、麻薬とまではいえない。先住民たちは、空腹や疲労をそれで癒してきたのである。私もフットサルの試合前には、「力がでる」と勧められて何度か噛んだものだった。もっともまったく効き目はなく無様なプレーに終始したが。

 しかし精製された白い粉となると、話は別だ。脈拍や心拍をコントロールする脳の中枢機能を破壊する。大量の吸引はショック死にも繋がるし、欧米の旅行者がラパスのホテルの一室で死んでいることが度々あった。鼻腔から吸うので、鼻から頭蓋骨にかけての骨が溶けるなどといわれている。ジャンキーになる可能性も高い。

 私は保安官といっしょに村を見回ることにした。といってもテレビに出てくる刑事のように捜査するわけはではない。ただ、保安官と私が麻薬の取締りをしているという噂が広まり、売人がいなくなり、労働者がコカインを吸わなくなればいいのである。

 保安官といっても、アメリカ映画に出てくるワイアットアープなんかを想像してはいけない。記章なんかつけていないし、普段は着古したワイシャツを着て、よりよれのズボンをはいている、60歳を越えた痩せた老人である。でも、拳銃だけはもっている。保安官は新しい銃を購入すると、暴発するのが怖いのか、必ず私のところへ来て、誰もいない林の中で試し撃ちをさせた。

 しばらくの間、馬に乗る保安官と彼につき従う私の姿が、アマゾンの小村のあちらこちらで見られた。まさにドンキホーテとサンチョ・パンサである。友人によく、「おう、保安官助手が来たぜ」と酒場やディスコでからかわれたものだった。

 取り締まりのあとには、保安官の家に寄って休んだ。失業中の長男が、愛想良くコカ茶を出してくれた。


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