筆者が思うに、このような1980~90年代前半にすり込まれた日本イメージが、現在の急速な経済発展、観光ブーム、そして日本側によるビザ発給条件の緩和とともに、日本観光の急激な拡大として噴出しているのである。テレビニュースなどで報じられるところによると、富士山五合目や箱根など富士山が見える場所を東京~関西間の観光ルートに組み込んで「黄金路線」と銘打ったツアーが大いに好評を博しているようだが、実際に筆者が先日箱根を訪れた際には、至るところ中国人観光客の喧噪のるつぼと化しているのは壮観ですらあった(高温と湿気のため富士山が見えないのを残念がっている様子であった)。
近現代中国史・日中関係史の転換点になる
もちろん、中国人観光客はすでに東南アジア諸国やヨーロッパ、そして最近では馬英九政権の出現で急速に関係が「強化」されている台湾へと殺到しているので、日本観光の急増が特殊な現象であるというわけでは決してない。しかし日本は、近現代の中国からみて最も心理的に複雑な存在であり、同時に強い文化的・経済的な刺激・影響をも受けてきた存在である。その日本を、全人口からみればまだまだ約2割弱に過ぎない富裕・中間層に限られるとはいえ、旅行費用さえ払えば誰でも直接見聞可能となったことは、近現代中国史・日中関係史の観点から見て極めて大きな転換点である。
何故ならそれは、二国間関係においてどちらかの国がもう一方の国に対する情報をより多く集積させ、その結果として現実の力関係において優位に立つという構図を変え、より競争的で混沌とした未来を現出させるかもしれないからである。むしろ、新たな接触の機会を通じた情報の集積や関心の向け方次第では、二国間関係は大きく逆転することだろう。
基本的にいって、ある一国の国民全体が得た情報の集大成が正確なものであれば、その国家の運営と外交はより誤りが少なくなり、情報の集大成が不足や錯誤にまみれていれば必ず禍根を残す。2005年の反日デモ爆発に至る中国(及び韓国)世論の対日偏見と、それをうけた中国(韓国)政府の一時的な対日関係破壊などはその最たるものであろう。
近現代中国の歴史はある意味で、日本との「情報蓄積戦」に「敗北」してきた歴史であり、多くの場合日本から一方的に影響を受ける歴史であった(「抗日戦争勝利」という文脈は小論では扱わない。ただ、日本の敗戦は別の意味で「情報蓄積戦」に敗北した結果でもある。中国ナショナリズムの高まりを日本が見落とし、中国に「友好的」な英米両国を敵に回したことが致命的であった)。
日本と中国は一衣帯水の関係なのか?
ふつう、往々にして社交辞令も兼ねて、「日本と中国は一衣帯水の関係」「日本と中国は同文同種」であるといわれる。しかし筆者の管見では、こうした表現ほど前近代からの日中関係史の実相とほど遠いものはない。「一衣帯水」「同文同種」とは、もともと同じ漢字文化を共有するという点で、ふたつの国があたかも一枚の衣のように一体であり、それがたまたま海と政治的不和で隔てられているに過ぎないとする表現である。
しかしこの表現は決して適切ではない。そもそも日本は卑弥呼、そして遣唐使の昔から、東シナ海の対岸でどのような政治体制と文物が展開してきたかを周到に蓄積し取捨選択してきた。それは様々な文化伝播・吸収の事例と同じく、周囲の巨大な大国の文化的影響にさらされた小国が、自らに適したものを取り入れて変化・改良を加えた結果、独自のものをつくりあげてきた歴史であったと言えよう。国風文化の形成しかり、江戸時代における儒教の積極的受容が武士の実務官僚化を促した結果、西洋文明に対しても柔軟な態度を生み出し、蘭学の拡大に至ったことしかりである。そして、外界の動きや外からの影響に敏感であったことが、西洋列強のアジア進出の動きの中で迅速な近代国家化を促して明治維新をもたらした。もちろん、清、民国、人民共和国を問わず、日本からは常に中国大陸での動向にも深い関心が向けられ、時期によっては多くの日本人が中国大陸の現地の雰囲気を直接見聞してきた。
もちろん、それらの全てが正確だったとは言えなず、様々な偏見が日本人の中国・対外認識を曇らせた。中国語能力を身につけた自身の直接の見聞よりも、軍やメディアに操作された枠の中でしか中国現地の状況を知り得なかった人も多かったはずである。
参考とされた日本の近代国家建設の成果
とはいえ、改革・開放の時代となる前の中国・中国人が、日本について同様の知的蓄積を積み重ねてきたかと言えば、圧倒的に否としか言いようがない。