2024年11月21日(木)

足立倫行のプレミアムエッセイ

2017年10月1日

日本人の心理特性

 ところで、浦島太郎の昔話に関しては、河合隼雄氏が深層心理学の立場から、日本人の心理の特性を示すモデルとして取り上げている(『昔話と日本人の心』)。

 1点目は、2つに分裂した女性像である。『風土記』において亀比売は漁夫に言い寄り結婚する女性だが、やがて異界の美女像は時代と共に変化し、亀は単なる乗り物に、美女は仙女から神女、そして乙姫へと変貌する。

 西洋では白鳥になった乙女は王子と結婚するが、日本の亀から分離した乙姫はしない。

 我々日本人は、乙姫ないし天女は、「かぐや姫」が5人の貴人の求婚を拒否して月の世界へ帰ったように、色恋とは無縁の聖母的な存在でなければならないと思っている。

 つまり、一方に亀比売のごとく肉体を持つ女性がいて、もう一方に「永遠の少女」のような非肉体的な女性がいる。日本の男性の女性像は分裂しており、対等視が困難なのだ。

 もう1点は、外界と内界、意識界と無意識界の区別の曖昧さである。

 浦島太郎の物語はどの時代でも、現世から異界(龍宮)への移動が著しく簡単だ。いかなる葛藤もなく、すんなり移動する。イザナギの冥界(黄泉の国・よみのくに)往還の話もそうである。

 ところが、イザナギの話とほぼ同じギリシャのオルペウス神話では、妻を取り戻しに行くオルペウスは冥界の入口で番犬ケルベロスに、三途の河で渡し守カロンに、また冥界王ハデスとその女王に、渾身の思いで竪琴を弾き聞かせないと暗黒の世界を進めなかった。浦島伝承に似た『うた人トーマス』でも、主人公は異界へ赴くのに40日間、膝までの血の海を渡り、波音とどろく暗闇の世界を行く。

 このことから河合氏は見解を引き出す。

 「西洋流の母親殺しを達成して確立された自我は、意識と無意識との区別が明白であり、ものごとを対象化して把握する力をもつ」「それに比して、日本的な意識の在り方は、常に境界をあいまいにすることによって、全体を未分化なままで把握しようとする」

 不思議なことに、3つ目の官撰国史である『日本後紀』には、「浦嶋子」の帰還のことが天長2年(825年)の条に出ている。

 「この歳浦嶋子が帰郷。雄略天皇の御世に海に入ったもの。今から347年前だ」

 『日本書記』の雄略天皇紀の記事が478年なので、そこから数えて347年ということだ。確かに河合氏が言うように、「このような記事が歴史書にのせられる」こと自体が、外的事実と内的事実を容易に混同する「日本人の特性のひとつ」かもしれない。

 私がCM〈三太郎シリーズ〉ですぐ思い出すのは、浦島太郎(桐谷健太)が三線を弾きながら『海の声』を歌った後、海に向かって「乙ちゃーん!」と叫ぶ場面だが、考えてみれば、この場面こそ内・外界の混同そのものであり、同時に乙姫の聖女化の典型的場面。

 紛れもなく、私もド日本人である。

 ※丹波国は広大だったが、和銅6年(713年)に、丹波、丹後の2つに分国された。

  
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