2024年11月22日(金)

ヒットメーカーの舞台裏

2010年9月27日

 まず着手したのは、ぬか床をかき混ぜる手間を省くことだった。円形の上ぶたを作り、ぬか床に突き刺させるよう片面に2本の攪拌棒を取り付けた。さらに上ぶたの上部には、お椀を逆さにしたようなドーム形の部品を接着した。このドームを握りながら上ぶたを回転させるという算段だった。

行き詰まりから生まれた
臭いがしないヒント

 しかし、回転させるには予想外の力を要し、「女性には厳しい」と断念せざるを得なかった。アイデアに行き詰まり、上ぶたをしたまま1週間ほど放置した容器を開けると、意外なことになっていた。ぬか床は健全で、腐敗臭もしなかったのだ。ふたを密着させることで空気が遮断され、腐敗を防いだのだった。ただし、水分は増えていた。水分は除去しないと、ぬかの塩分が薄まって味にも影響するし、やがて腐敗やカビの発生にもつながる。そこで、ふたに水抜き穴を開けることにした。穴の数は加工の手間が比較的少なく、水抜きも十分できる8個とした。

 穴の径はぬかが目詰まりせず、にじみ出た水分が逆流しないよう数種類のサイズで試験して確定した。さらに、排水がスムーズに行くよう、重し用の筒も取り付けた。約2年で完成に漕ぎ着け、特許を申請するとともに自社のホームページやネット通販経由での販売を始めた。

 発売から数カ月は、月間数十個のペースだったものの、09年10月にNHKの朝番組で取り上げられたことで、認知度が一気に高まった。その後、民放局でも紹介され、生産が間に合わないほどの売れ行きとなっていった。

 田中は中学卒業と同時に長浜を離れ、親戚が東京で経営していた樹脂加工メーカーに就職した。製造現場からのたたき上げであり、病気で97年に退社する時には役員にもなっていた。その後2年間、自営でこの会社の下請け加工に携わった後、同社の清算に伴って業務を引き継ぐためヒョーシンを設立した。あれこれ考えながら進めるモノづくりが大好きで、今も先頭に立って商品を企画・提案している。不良在庫対策として始めた、ぬか漬け名人を作る過程も「実は楽しくてしょうがなかった」と笑う。企業人として大事にしてきたことは人間関係といい、経営理念の柱にも「人を尊重することを基本」に掲げている。協力メーカーなどとは長年の取引関係にあり、従業員には70歳を超える人もいる。

 08年秋のリーマンショック後は、売上減に見舞われたものの、ぬか漬け名人で一定規模はカバーすることができた。3年前の誤発注は、愚直なまでのモノづくりに人生をささげる田中に、天がご褒美として与えたチャンスだったような気がする。(敬称略)


■メイキング オブ ヒットメーカー 田中兵衛(たなか・ひょうえい)さん
ヒョーシン 代表取締役社長

写真:井上智幸

1944年生まれ
長浜市に生まれる。5人兄弟の長男として子守のほかに、「浜ちりめん」で知られる絹の産地で養蚕が盛んなこともあり、学校から帰ると桑畑で、両親を手伝うことが多い少年時代だった。
1960年(16歳)
中学を卒業すると、親戚が東京で経営していたプラスチック加工会社に就職。お得意さん、仕入先との関係作りをしていくなかで、「人間関係」の大切さを学んだ。64年の東京五輪では、甲州街道でマラソンを見た。
1972年(28歳)
父親の病気のため、一時長浜に戻る。28歳の時に会社が滋賀工場を開設し、幹部として従事するようになり、東京で学んだ人との付き合いを一層大切にするようになる。
1999年(55歳)
53歳で体を崩したため独立して、加工の下請けを始めたが、それまで在籍した会社が清算されることになり、その仕事を引き継ぐ。99年にヒョーシンを設立した。液晶テレビの保護パネルなど新規事業も堅調で、従業員23人と小所帯ではあるが、温かい職場環境作りを大切にしている。

◆WEDGE2010年10月号より

 

 


 

 

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