2024年4月18日(木)

ヒットメーカーの舞台裏

2010年11月29日

年齢はハンディでなく、味方につけるもの

 何とか生き延び、終戦の翌年に旧制の都立工業専門学校を卒業した。しかし、実家の再建はおろか、就職もままならなかった。幼少時から飛行機のエンジニアにあこがれていたのだが、航空機は生産を禁止された。やむなく、進駐軍のジープ型車両の整備工として5年を過ごした。

 その後、輸入車ディーラー、商社勤務を経て、遅咲きの独立となった。工場の立ち上げは、焼失から丸30年を経た実家の再興でもあった。永田は今でも毎日、短時間だがひとり、機械を動かして本業の部品加工に励んでいる。見ると相当複雑な部品のカシメ工程をこなしている。「品質が安定するよう、私なりの工法を提案したら、この仕事が入ってきたんですよ」と、コトもなげに笑う。

 そうした本業とともに、あるいはそれ以上心血を注いできた発明は、新聞整理箱以来、鳴かず飛ばずだった。失敗作のなかには、2枚のうちわ状の羽根を瞬時に閉じてハエを捕まえる「空中ハエたたき」などがある。ハエをたたいて落とさずに捕まえることができれば、デパートの食品売り場などにニーズがあると考えた。

 ところが、ハエの俊敏な動きにはついていけず、商品化は断念した。こうした試作品の数々は、見ているだけで楽しくなる。永田の発明品には、機能はともかくとしてその発想に、人をほのぼのと和ませるものが多い。埋もれていたクローバースプーンが発掘されたのも、そうした永田の発明品の魅力にテレビ各局が飛びついたからだった。

 当初は数十個単位のオーダーのため、自ら手作業でこなしていたが、雑貨チェーンの大手である東急ハンズが扱うようになってからは、新潟県の専門メーカーに量産を委ねている。メディアでは最寄りの駅名を取って「梅屋敷のエジソン」と持ち上げられるが、自身は「この歳でやっているから、取り上げていただけるんでしょうね」と、冷静に見つめている。 永田を見ていると、年齢はハンディでなく、味方につけるものなんだと、勇気づけられる。目下、力を注いでいるのは、イチゴのヘタ取り専用スプーンなどクローバーに次ぐシリーズ品の試作。発明学会の仲間から「こんなのいらないスプーン」と命名されたシリーズでもあるが、永田はやる気満々だ。お名前のように末永く、栄えてほしいと応援したくなる人である。(敬称略)
 

■メイキング オブ ヒットメーカー 永裕製作所 永田栄吉(ながた・えいきち)さん

写真:井上智幸

1925年
大正14年、東京・両国に生まれる。
父親が工場を営んでいたこともあり、モノ作りが好きで、ベーゴマ磨き、ゴム動力の模型飛行機作りに熱中した。
1943年(18歳)
東京市立第一中学校(現・都立九段高校)を経て、都立工業専門学校(旧制)に入学。学徒動員で三鷹の中島飛行機で戦闘機の製造に携わったが、主翼と胴体以外が木型に布張りだったため、模型飛行機作りの経験が役立った。
1951年(26歳)
大田区に移り住む。飛行機に携わりたいという気持ちはあったが終戦で飛行機生産が禁止となったため、進駐軍の自動車整備工、外車のディーラーなどで働く。ディーラー時代は、横浜港に車を取りに行き、会社のある虎ノ門まで運転して帰るのが楽しみだった。
1972年(47歳)
新聞整理箱を発明し、「第13回全国発明工夫コンクール」に入選。「町工場の息子は、町工場で生きるのがいい」と、50歳で商社勤めから脱サラし、永裕製作所を設立。オイルショックなど危機に見舞われたが、二女を育て上げた。
2010年(85歳)
本業は下降気味だが、その分発明に力を入れている。孫が成田空港で働き始め、「代わりに自分が働きたい」と思うほど、飛行機好きは相変わらずだ。
 

◆WEDGE2010年12月号より

 

 

 

 

 

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