07年末の会議も沈痛な報告となったが、コメを知り尽くす炊飯器開発のベテラン技術者から、ひとつの提案が出された。粉にするのでなく、水を吸わせた状態でペースト状に粉砕して焼いてみてはどうか、というものだった。この技術者は、三洋のベストセラー家電のひとつである加圧式のIH炊飯器「おどり炊き」シリーズを世に送り出した下澤理如(当時嘱託=10年10月に退社)だった。下澤は、実験室で毎日のようにごはんを炊くことから、社内では「飯炊きおじさん」の異名を取った人だ。岡本もかつて下澤のもとで開発に従事したことがあり、「ごはん炊きで手抜きをして、こっぴどく怒られた」こともあった。下澤の指摘に開発チームは一様に驚きの声をあげた。「米粉という固定観念にとらわれていたところをガーンと打たれた感じ」(岡本)だった。
パン焼きおじさんの苦労が報われたとき
08年春から、下澤は「パン焼きおじさん」になって、ペースト状のコメからパンが焼けることを実証した。研いだコメをペースト状にするのは、本体ケースの下部に設置したミル羽根を高速回転させることにした。ホームベーカリーでは生地をこねる羽根も必要なため、上部にこね用の羽根、下部にミル羽根という2層構造の採用が決まった。
だが、2つの羽根の回転数はミル用が高速、こね用は低速と全く異なる。しかも、ミル用が回転する時はコメペーストが飛散しないように、こね用は停止させる必要があった。こうした複雑な機構は鳥取工場では経験がなかった。そこで岡本はモーター技術を得意とする兵庫県の加西工場の門を叩いた。各事業部門は競っているため、こうした工場間にまたがる連携は異例だったが、「やっと商品化が見えた」という岡本の熱い訴えが相手側にも伝わった。加西の技術者は2種類のモーターを使い、クランク機構などでこね用の羽根を停止させる仕組みを考案した。ゴパンは下澤や加西工場のスタッフなど多くの協力者に支えられ、完成への道が開けていった。
09年末には社長の佐野精一郎へのプレゼンテーションを行った。その味に驚いた佐野は、直ちにマーケティングや広報、海外営業など全社横断的なプロジェクトとして売り出しに備えるよう指示した。7年近くにわたるチームの苦闘の日々が報われた瞬間だった。「それにしても」と岡本はつぶやく。「普通の会社だったら7年もやらせてもらえなかったでしょう」と。パナソニックとの事業統合により「三洋」のブランドは12年春までに市場から消える。しかし、ブランドは消えても消費者から長年愛されるであろう三洋の名品がまたひとつ増えた。(敬称略)
■メイキング オブ ヒットメーカー 岡本正範(おかもと・まさのり)さん
(三洋電機コンシューマエレクトロニクス・家電事業部企画統括部リビング商品企画部
リビング企画二課担当課長)
1971年生まれ
鳥取市生まれ。子どものころから、体を動かすことが好きで、サッカー、陸上競技にはじまり、高校・大学では、ラグビー部に所属した。ラグビーをやったおかげで、「とことんまでやる」「妥協しない」という姿勢が身に付いた。
1996年(25歳)
大学進学で地元を離れていたが、地元で働きたいと、Uターン就職。地元の最大手である鳥取三洋電機(現三洋電機コンシューマエレクトロニクス)に入社した。入社1年目には、FAXの営業を、2年目からは、「白モノ」の商品企画担当となった。
2006年(35歳)
商品企画担当のまま、現場経験を積むために鳥取工場へ転勤。社内でもおコメのプロで「飯炊きおじさん」と呼ばれた大先輩の下で、みっちり仕込まれる。炊飯器のテストで、少し目を離していた間にごはんが炊けていたことがあり、大先輩の逆鱗に触れた。「どんなに手間をかけても、仮説を徹底的に検証すること」を叩き込まれた。このためには、一切の妥協は許されないという厳しさを教わった。
2010年(39歳)
白モノを担当していて良かったと思うのは、商談のとき。自分が製作に関わった機器で作った料理を出しておもてなしをしているときが、一番楽しい。
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