サイバー空間の権力論

2018年5月25日

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塚越健司 (つかごし・けんじ)

拓殖大学非常勤講師

1984年生。専攻は情報社会学、社会哲学。著書に『ハクティビズムとは何か』(ソフトバンク新書)、共編著に『「統治」を創造する』(春秋社)、など。TBSラジオ『荒川強啓デイ・キャッチ!』火曜ニュースクリップ担当としてレギュラー出演中(http://www.tbsradio.jp/dc/)。

事実を突きつけられても「フェイク」と言い訳可能に

 本稿は最新技術と結びついた「フェイク」の実態について説明してきた。最後に、我々の社会にさらなる困難を招く恐れを指摘しておきたい。それは、本来スキャンダルや不正を暴く目的で公開された音声や動画が、「フェイク」の一言で反論される可能性である。

 昨今日本においても、財務省の元事務次官によるセクハラに関した音声が公開され話題となった。この問題に対しては、真偽の程は定かではないにせよ、一部では当該音声がいくつかの音声をつなぎ合わせたものではないか、という声もあった。ここでその真偽は問わないが、フェイク技術の発展を前提とすれば、ある動画なり音声が「フェイク」であるという可能性は、これまで以上にあらゆる証拠についてまわる問題となる。

 とすれば、仮に動画や音声が本物であったとしても、追及を逃れるためにフェイクであると述べることで、すべての現象に確実性を与えることが困難になってしまわないか。少なくとも「フェイク」を理由に、一時的にせよ追及の手を逃れることは可能となるのではないか。

 もちろん裁判の場合など、プロが検証することである程度の真偽性は保てるかもしれない。しかし人々は裁判結果を待ったり、あるいはその結果に納得できるだろうか。なぜなら本連載が指摘してきたように、見たいものだけを見る社会、すなわち「フィルターバブル」や「ポストトゥルース」と呼ばれる時代において、人々はフェイク疑惑に対して「逆フェイク疑惑」をもちかけるような、自分にとって都合の良い解釈をしてしまいがちだからである。仮に裁判でフェイク認定がなされてもなお、それに納得せず「裁判結果こそがフェイクだ」と述べる人々が一定数生じることも想定される。実際、アウシュヴィッツ強制収容所に関するデマと戦った実話ベースの映画『否定と肯定』では、裁判とは無関係に、信じたい事を信じようとする人々の姿が描かれている。

 インターネット空間においても、過激な報道は人々の目に届きやすいことが知られている。例えばニューヨーク・タイムズ紙によれば、ネットを駆け巡る速報やスキャンダルラスなニュースとそれを訂正するニュースを比べた結果、訂正報道は訂正前の3分の1ないしそれ以下しか読まれないという結果がある。フェイク動画によって世論が一度動いてしまえば、それらの真偽に関わる事後報道がより大きな影響力を持つことは困難だ。さらに、フェイクに対する逆フェイク指摘、という論法の可能性も先に述べた通りである。

 フェイク問題は人々の思考を混乱させるばかりか、真実に対する人々の関心を消失させる大きな要因となる。何がフェイクで何がフェイクでないか、それらを判断することすら困難になりつつある世界の中で、我々はどのように真実と向き合うべきなのか。少なくとも、自分の思考や行動に対しても疑問を持つ態度が必要とされているように思われる。
 

  
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