昭和初期の無声映画時代の大スターだった鈴木傳明(すずきでんめい・1900~85年)が福島県石城郡泉村下川(現いわき市泉町)の出身である。明治大学で万能スポーツ選手として鳴らして松竹蒲田撮影所で俳優になった。明朗快活なスポーツマン・タイプの好青年で、男らしくて女性にはやさしいというアメリカ映画調の先端的なスターだった。
戦前のスターではモダーンなお色気で人気のあった逢初夢子(あいぞめゆめこ)が猪苗代町出身、対比的に純情娘役で売り出した水戸光子(1919~81年)が大沼郡新鶴村(現会津美里町)境野の出身である。昔のスターと言ってもビデオでなら若き日のういういしい姿を見ることができる。逢初夢子は「隣りの八重ちゃん」(1934年)の女学生が素敵だし、水戸光子はやっぱり出世作だった「暖流」(1939年)の看護婦さんだ。
1960年代の日本映画のヌーベルバーグをリードした大島渚監督の一連の作品で、いつも冷徹な男の役で重厚な演技を見せてくれた佐藤慶(1928~2010年)は会津若松市の出身。市役所に勤めながら演劇活動に熱中し、上京して新劇俳優になって映画で大成した。
『釣りバカ日誌 20 ファイナル』
DVD発売中 ¥4,935(税込)
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東北にはすぐれたコメディアンが多いが福島県出身では佐藤B作と西田敏行がいま第一線にいる。佐藤B作は早稲田、西田敏行は明治だが、いずれも学生時代から新劇にうちこんで、喜劇に本領を見出してそれぞれ独自の笑いを生み出すようになった。
福島市出身の佐藤B作は「男はつらいよ・夜霧にむせぶ寅次郎」(1984年)で、自分を捨てて逃げた妻を追っている男が傑作だった。別の男と結ばれている妻が、貧しさにもかかわらず仕合わせそうにしている姿を見てうろたえる。そのうろたえぶりが、単なるダメ男や気弱な男とは違う、一種の人間的な誠実さを感じさせるところがユニークで新鮮で、新しいタイプのコメディアンだと感心したものである。
郡山市出身の西田敏行は「釣りバカ日誌」シリーズでドタバタ喜劇の人気者として不動の地位を確立したが、このハマちゃんという人物は単なるバカとは違って、確固とした自分の生き方の哲学を持っている人物である。
監督では現在の南相馬市出身の亀井文夫(1908~87年)の存在が大きい。戦前にソビエトのレニングラードの映画学校に学んで帰国し戦争中にドキュメンタリー映画作家になった。代表作の「戦ふ兵隊」(1939年)は反戦的な意図を検閲官に見ぬかれ上映禁止になり、亀井自身も1年間投獄された。すなわち戦争中に反戦映画を作ったただひとりの映画監督として映画史に名を残した。戦後も被爆者の放射線障害を最初に映画として描いた「生きていてよかった」(1956年)など、社会派ドキュメンタリーのリーダーとして活躍した。やはりドキュメンタリーの監督で名作「マザー・テレサとその世界」(1979年)を作った千葉茂樹は福島市の出身である。