菅政権は、福島原発事故対応でも賠償スキーム策定でも、最終責任を回避する姿勢に終始した。東京電力を「無期懲役」に処し、賠償も電力供給も続行させるのは持続可能なのか。
被害者を置き去りにせず、将来にわたる電力の安定供給を確保するためには、国家全体のエネルギーセキュリティを視野に入れた枠組みを大胆に構想する必要がある。
誰も泥をかぶらない
福島第一原子力発電所の事故は、日本のエネルギー政策、特に原子力政策の責任の所在の曖昧さを露呈することとなった。今後、原子力利用の是非のみならず、エネルギー政策の企画立案と実施責任をどのような体制で担うのかが大きな問題となる。政府部内の体制、政府と民間企業の分担、また政策実施に伴う各種コストの負担の在り方などを早急に検討し直し、エネルギー政策の新たな基本方針を国民に示さなければならない。
菅政権は、原発事故対応を巡って迷走を続けてきた。その根本的な問題は、リーダーシップを見せつけようとしながら、本質的責任を回避しようとする姿勢である。世論調査によれば8割程度の人が菅政権の原発事故対応を支持していない。世間の人々は、どこにでもいる「手柄は自分、責任は部下」という上司像と菅直人総理を重ね合わせたのではないだろうか。政治主導とは、政治家自身が現場仕事をやっていることを見せるのではなく、現場の即断即決を促すために、最終的政治責任を取ることこそがその本質なのである。
一つ例を挙げれば、原発事故収束に向けた「工程表」である。菅総理は自ら東京電力に作成を指示したとし、「政府として全力を挙げて協力する」と国会で答弁している。しかし、実は事故直後から原子力災害対策特別措置法に基づいて「原子力緊急事態宣言」を発し、原子力災害対策本部が設置されて、菅総理自らが本部長に就任しているのだ。「協力する」という姿勢では、本部長として自らが最終責任者であることを自覚しているのかと疑いたくなる。
またもう一つの例は、中部電力に対する浜岡原子力発電所の運転停止の「要請」である。突然の記者会見で政治的効果を狙う一方、代替電力供給方法について何の説明もないまま、法的責任を取ることが不要な「要請」という曖昧な措置に留める。中部電力が拒否すれば、世論の批判の矛先は同社に向かうし、受諾すれば自らの政治的得点になる。こうしたやり方には、国民生活や経済活動に対するエネルギー供給を国が最終的に保障するのだという気概が、まったく見えない。国のエネルギー政策の大転換にもつながるような判断を、中部電力一社に押し付けるようなものなのである。
確かに原子力利用を推進してきたのは自民党政権だ。しかし、鳩山由紀夫前総理の温室効果ガス25%削減構想という非現実的な国際公約によって、エネルギー政策の原子力依存を一層進めなければならなくなったのだ。昨年6月、2030年までに14基以上の原発を新設し、電力の5割近くを原子力に依存する「エネルギー基本計画」を閣議決定している。この時点で、原子力政策の責任も、名実ともに民主党政権が引き継いだのである。