中国が復活できなければ、日本が領有してしまえばよい
「未來の日本國民は、その天與の海洋を利用し宇内の大勢に投じて、南北東西に商業線、航海線を擴張する所の勇敢なる遠征的國民たらんことを熱望」しつつ、安東は日清両国を比較する。
「八十五萬方里の沃土を擁し、四億三千萬の民衆を収むる」大清帝国と、「蕞薾たる二萬四千方里の一孤島にして、充すに擾々四千萬の多頭を以てせる日東の海國」を比較して、「其の人口に於て我は彼の十分の一に居り、面積に於ては彼れ我れの三十倍を超えたり」。次いで「一は眠れる象の如く、一は覺めたる小猴の如し、一は病める老爺にして、一は潑剌たる少年なり」との比較を「局外漢の妄評」だと退けた後、「吾人は此の大帝國の決して言ふが如き絶望の老體にあらざるを信ずる」とした。
「東邦開明の先進者を以て自任せる日東國人」にして「義俠なる櫻花國の健兒」ならば、「彼の病衰せりといふ老爺を負ふて起ち、老爺はまた斯の多望可愛なる美少年の肩に倚て導かれん、もし夫れ不幸にして老爺の臥して、また起たさるが如き、危機に遭遇することあらば、我れ代つて其の相續權を占握せんも、又好がらずや」。
この考えに従うなら、大清帝国は一般に伝えられるほどには「絶望の老體」ではない。「義俠なる櫻花國の健兒」に導かれれば、亡国の淵から復活する可能性はある。だが、万一それが不可能なら、清国の相続権は日本が持つ。だから日本が領有しても問題はなかろう。こういう過激な主張が、日清戦争前夜の「義俠なる櫻花國の健兒」の心に芽生えていたわけだ。因みに福沢の脱亜論が発表されたのは、6年前の明治18(1885)年だった。
中国を日本の尺度で量ってはならない
安東の興味は先ず港に向った。
「細長くして幅の狹く我が日本の地にあつては、海港と河港とを區別するの必要を見ずと雖も、廣濶の巨流に富める支那にあつては、此の區別をなさゞるべからず」。じつは「國人の觀念には、港と海とは殆ど分離すべからさるものと信せる」。だが「支那の大切なる港は、海岸にあらずして、却て皆河岸にあるこそ不思議なれ」。「目下支那の通商碼頭は二十一個所」あるが、その大部分は海ではなく河川に面している。だから、「素より海岸に直接せる、我が國神戸、横濱、長崎等の海港と同一視すべからざるものあり」。
次いで河川。
「支那の河流は、軍艦滊船等の交通自在にして、其の廣大なること恰も我が國瀬戸内海の如き利便を有するものなり」。冬季から早春にかけて「結氷に閉ぢられて、艦船の交通を妨阻し、貿易を中止」せざるをえない河川もある。国際公法では沿岸から3哩以遠はその国の主権外だから、長江を「遡る他國の軍艦は、支那帝國主權外の地を航行するもの」との主張すらみられるほど。ともかく日本の尺度を超える。ともかくも「大陸の風物自ら一小群島の景状と異なる所あるを想ふべし」。
おそらく安東は、「一小群島」の基準で、人口規模で10倍、国土面積では30倍の広さを持つ「大陸の風物」を推し量ることは非現実的であり、誤解を招き、誤った判断に結びつきかねず危険であると言いたかったのだろう。この辺りの考えは、現在にも十分通じる。
たとえば「新疆、蒙古、西蔵等の屬部はもとより、本部十九省中に在ても、貴州、湖南、甘肅、河南、四川、雲南、廣西などの諸省中には、清政府主權の布及せざる地方甚だ多く、一種剽悍なる蠻族棲居して、旅客及び附近地方の領民を苦しむる者」がある。「支那政府は此等の蠻族を統御する」ための方策をとっているが、「素より化外の蠻夷なれは、中央政府の權威を怖れず、租税を納むる事なく、一種自治體にして、(中略)風俗言語等も通常の支那人と異なり。其地方を通行する隊商等は、彼等に賄賂を贈りて歡心を求め、僅に暴害を免れ居る有様」だ。つまり清国では「内治未だ統一せざる」のである。
いわば「清政府主權の布及せざる地方甚だ多く」、それらの地方には「蠻族棲居し」、彼らは「中央政府の權威を怖れず」、「一種自治體」を構成しているゆえに、清国を名乗ってはいるが統一した国家ではない。清国は統一国家にあらずとは、鋭い指摘だ。
だが「特に驚く可きは」と記したうえで、「斯かる蠻野の近傍にも、數名の歐羅巴人、清装辮髪にて入り込み、宣敎に從事し居ることにて、白人の大膽なる、又熱心堅忍なる、眞に驚歎の外なしと云ふ」と続ける。確かに「眞に驚歎の外なし」と舌を巻くしかない列強のインテリジェンスである。こと清国進出に関する限り、日本は後発国、つまり列強諸国に較べ大いに出遅れていた。フィールドに身を置いてのリアルな日常を把握する努力に欠けていたのだ。