高杉らを乗せた千歳丸による上海訪問から10年を経た明治5(1872)年、明治政府の外務卿・福島種臣は日清修好条規批准書交換のために清国に旅発つ。両国の国交が開かれたことにより、伊藤博文を筆頭とする政治家、外交官、軍人、学者、文人、経済人など多彩な明治人が大陸を訪れ様々な思いを綴っている。彼らの多くは“表玄関”から清国を訪れ、外交・経済・文化などを中心に“大上段”から清国を捉え、両国関係を論じた。
日清修好条規批准書交換は、じつは名も無き市井の人々にも大陸旅行の機会を与えたのである。それまで書物でしか知ることのなかった「中華」を、彼らは自ら皮膚感覚で捉え書き留めようと努めた。
かりに前者を清国理解における知性主義とでも表現するなら、後者は反知性主義と位置づけられるだろうか。これまで知性主義による清国理解は数多く論じられてきたが、反知性主義のそれにはあまり接したことがない。
歴史教科書で扱われることなどなかった明治人による反知性主義的清国理解を振り返ることは、あるいは知性主義の“欠陥”を考えるうえでの手助けになるのではないか。それというのも、明治初年から現在まで知性主義に拠って律せられてきた我が国の一連の取り組みが、我が国に必ずしも好結果をもたらさなかったと考えるからである。もちろん反知性主義だからといって、その結論が現在の我が国メディアで喧伝されがちな中国崩壊論に、あるいは無条件の中国礼讃論に行き着くわけでもないことは予め断わっておきたい。
※なお原典からの引用に当たっては、漢字、仮名遣いは原文のままに留め、変体仮名は通常の仮名(たとえば「ヿ」は「こと」)に、カタカナはひらがなに改めることを原則としておく。
インテリジェンス工作のため清国へ
元米沢藩士の曾根俊虎(弘化4=1847年~明治43=1910年)は福島外務卿の随員として清国に向った。奉職した帝国海軍では主に清国に対するインテリジェンス工作に当たったようだ。前後6回(明治6、7、9、12、13、17年)に及んだ清国旅行の一部を記録した『北支那紀行』(出版所不詳 明治八・九年)に基づいて、彼の清国体験を追ってみたい。
ここで、『北支那紀行』から浮かび上がってくる曾根の活動を理解する前提として、清国をめぐる当時の内外情況を以下に簡単に振り返っておく。
1863年、アメリカが上海に租界を設定し、イギリス租界と合わせ共同租界とする。翌64年ころからロシアが清国への食指を動かし始める。外債第一号としてイギリスより借款を受ける(65年)。イタリアとの通商条約締結(66年)。ロシアとの新疆境界を設定。アメリカとの天津追加条約を締結(共に68年)。オーストラリアとの通商航海条約を締結(69年)。フランス人虐殺に関し謝罪使を派遣(70年)。ロシア、イリ地方に侵攻。日清通商天津条約を締結(共に71年)。日本、台湾に派兵(74年)。イギリスと芝罘(烟台)条約を締結(76年)。
清国国内では太平天国の制圧の後、結果的には大失敗に終わりはしたが、アメリカに第一次留学生派遣(72年)、イギリスとフランスに留学生派遣し(76年)、近代的軍需工場建設、殖産興業の奨励など、近代化=富国強兵に向け必死の取り組みが続いた。
一方の日本では征韓論が起った2年後の明治8(=1875年)にはロシアとの間で千島・樺太交換条約が結ばれるなど、いよいよ外に目を向け始める。
以上の内外情勢を考えれば、曾根の旅行が単なる物見遊山ではなく、兵要地誌作りが目的であったと考えざるを得ない。日本もまた否応なく、清国を舞台に展開される列強による国際的大競争という時代の大海原に船出することになる。時代の激浪を、なんとしてでも乗り切らねばならなかった。