2024年4月26日(金)

明治の反知性主義が見た中国

2018年8月22日

アヘンや人身売買がはびこる「孔孟の国」の現実

 旅の出発点である天津で、曾根は書物からは学び得なかったリアルな「中華」に足を踏み入れた。

 人々は「廉恥殆んど地を拂」う状態にあり、「人情極めて狡猾にして義理の何物たるを知しら」ない。それというのも第2次アヘン戦争(別名「アロー戦争」)で英仏連合軍に1860年に敗れたことで経済状態はどん底となったことから、誰もが「自己を利するの短策」に奔るようになったからだ。

 そんな社会であってもアヘンは止められないらしい。「盛んなること上海より甚だし」。アヘンの次は嫖(買う)となる。娼妓には、広東からやって来て外国人居住区で「外國人の睡に伴」う者と、天津の北郊に住んで「春を賣」る者がいる。「此地男色を鬻く十一二歳より十六七歳に至る是れ最も好看にして其美姿〔中略〕娼妓の上に出る者有り故に官員の男色を弄する者最も多し」。その官員、今風にいうなら幹部だが、今も昔も権勢を恣(ほしいまま)に弄んでいる。

 人身売買は日常化しているようだ。「其歳の多少と容姿の好惡に由て等差有れども概畧十兩を投ずれは五六歳以下の子を買ふ可し亦六百金より三百五十金餘を投せば」、何やら最上級の「美娘を買ふに足る」のであった。

 1872(明治5)年のイギリス人調査で40万人の人口を擁するとされる天津は、「路上に臨めは臭惡の氣俄然として鼻を穿ち汚穢の堆き葷然として眼を病む」というのだから、穏やかではない。道路は狭くデコボコの悪路のうえに車にはスプリングがついていないから、車に乗るのも命懸けだったようだ。さらに「病犬曜豚は行人に混して徘徊し一犬偶々西裝の者を見て吠るときは萬犬狺々たるを致す」。「病犬」に纏わりつかれ「狺々(キャンキャン、ワンワン)」と吠えられたら堪ったものではないが、そのうえに「拾糞人は汚身に弊衣を着ケけ(竹籠を背負って)爭て路上或は橋邊に出て右顧左眄頭を垂れ糞を尋ぬ糞山溺海は北京の大さに讓れども城の内外各處に糞場有り行人の脱糞を要する者は該處に至り烟を吹き談話を悠然として脱了す」。凄まじい限りの汚さだ。垂・吸・話の動作を一度に済ますとは、妙技としかいいようはない。

 かてて加えて乞食には「裸体なる有り單衣なる有り滿身の汚垢墨の如く橋頭或は廣路に横臥し徃來の客に注目し有錢客と認むるときは衆乞群蜂の如く尾し來り老爺と叫ひ錢を乞ひ之を得て始て止む」。この凄まじさには、曾根も面食らったことだろう。

 天津は1860年の第2次アヘン戦争敗北を機に結ばれた天津条約によって開放され、「英、佛、米、魯、普等の領事館」が設けられている。北方では逸早く西欧諸国に向って開かれ近代化が進んでいるはずの天津の街は荒み切っていた。これが“孔孟の国”の現実だった。

 英仏両国は戦勝に乗じて一等地を広く押さえ、米露両国などは「不便の地僅々を有する」のみ。南側の適地は外国人に押さえられ、残された北側の「路上狹小にして汚穢甚だし」い北側に「廣東人と土人と雜居」している。「土人」というのは土着の天津人という意味だろう。それにしても、なぜ北方の天津に南方の広東人が住んでいるのか。おそらく英国人などが取引を円滑に進めるために、香港周辺から広東人を雇って連れてきたのだろう。かくて南北に遠く離れた香港と天津とが海上航路で結ばれ、カネはモノを呼び、モノはカネを招き、カネの匂いに誘われてヒトが集まることになる。

 天津市街の観察を終え、郊外の堡塁、砲台、軍営、軍船碇泊地などの軍事施設、製鉄所を観察した後、いよいよ「北支那」に向って歩きだす。道路事情、沿道の集落から集落までの距離、目に入る周辺の自然環境など事細かに記している。

 宿舎は例外なく「陋亦甚だし」く、時に「水を要して其盛り來るを見れは色青黃にして臭氣あり飯を炊くも亦此水を以てするや飯亦青黄色を帶ひて臭氣鼻を穿ち一箸も下すに堪へず」といった有様だ。水も青黄色く、飯も青黄色。そのうえ臭くて堪らない。こんなものを日頃から口にしている清国人に同情すべきか。それとも、こんなものを口にしても何ともない清国人の内臓に驚嘆すべきか。


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