2024年11月22日(金)

明治の反知性主義が見た中国

2018年8月22日

日本はイギリスの“手駒”に仕立てられた?

 環境劣悪な旅館を後に、営口の英領事の紹介で「英商『クライアト』氏の宅に転居」する。この人物は、「此地に在ること前後十二年にして支那に知己多く説話亦支那人と一般なり此邊地方の地理、人情、物産等の物を問ふに甚だ悉せり」。英商を訪ねてやってきたプロシャ人は「前月より北地に遊ひ吉林地方より魯國の界境に到り亦馬賊の情勢を探偵し四五日前に茲に來着したる者」だった。また曾根は「佛國敎師『ボヲィァ』氏」から目的地の1つである奉天の事情を聴き取ると同時に、奉天で教師をしている友人を紹介されたというのだ。

 曾根が対した3人の西洋人の振る舞いから判断して、イギリスとプロシャとフランスの3国から送り込まれたに違いないだろう。彼らは腰を落ち着け現地社会に溶け込み、長い時間をかけて満洲からロシア国境にかけての広大な地域を探査していたはずだ。もちろん目的は、当時の列強間で行われた熾烈な植民地争奪ゲームに勝利するため。つまり曾根が出会った「英商『クライアト』氏」、プロシャ人、そして「佛國敎師『ボヲィァ』氏」(おそらく奉天在住の友人教師も)は満洲を求める列強諸国の先兵たるインテリジェンス要員だったはずだ。こうみてくると、満洲に関する限り、やはり日本は“後発国”だったことを認めざるをえない。これが帝国主義の時代が持つ冷厳なる真実だろう。

 やがて奉天へ。ここでは「佛國敎師『ボヲィァ』氏」の紹介してくれた友人の「神父に面會し地理産物兵備壯觀等の有無を問」うた。その後、数日を掛けて奉天市街、郊外を時に馬に跨り徹底踏査している。かくて曾根は「支那陸行の難きこと」を総括して、

――ともかくも内陸旅行は物騒で、危険だ。ロクな食べ物はなく、部屋のオンドルは熱すぎて安眠できず、部屋は汚く不健康。車夫も旅館店主も狡猾で安心できない。ホッと心伸びやかに和ませてくれるような自然など見当たらない。胸襟を開いて語り合える好人物には出会えないから、ともかくも現地人と話をするのが億劫だ。だが、困難に耐え清国の死命を制するような状況を探り清朝帝室の内情を見極めることが自分の使命であればこそ、前途に何が待ち構えていようとも前進するだけだ――

 奉天から営口に戻った曾根は、朝鮮国境に近く馬賊が出没を繰り返す大孤山一帯への踏査の旅を英国領事に、次いで「佛教師」に相談した。すると「佛教師」が大孤山を越えた朝鮮に近いところに住むという知り合いの「同國の教師」を紹介してくれる。「同國の教師」というからには同じくフランス人だろうが、その人物は「北支那に在ること二十年各地に遊ばざる處無く語音に通じ地理に明かに今年六十二歳」とのこと。現在ならいざ知らず、当時の「六十二歳」といえば相当に高齢だったはずだから、単なる物好きで辺境の地に20年も住んでいたとも思えない。「遊ばざる處無く語音に通じ地理に明か」というからには、やはり常識的には情報関係の任務を帯びていたと考えるべきだろう。

 曾根の出発を聞きつけて、今度は英国領事の友人らしい「『スウエッテ』の人『ショールンド』と云ふ者」が同行を願ってきた。「スウエッテ」とはスウエーデンを指すのか。それにしても、曾根の行く先行く先には必ずといっていいほどに一癖も二癖もありそうな西欧人が待ち構えているが、それは偶然ではなく、植民地争奪の大競争という時代の最前線で起こるべくして起こる虚々実々の駆け引きの一端だったと見るべきだ。

 曾根は営口の衙門(やくしょ)に奉天往復旅行の「路票」を返却し、新たに大孤山一帯行きの「護照(パスポート)」の交付を要求する。だが、役人は危険極まりないことを理由に「護照」の給付を断固として拒否する。度重なる説得も、結局はムダだった。かくて「『スウエッテ』の人『ショールンド』と云ふ者」と共に、「大に失望したり」。

 大孤山一帯の探索が不可能であることを知った曾根は英領事、「佛敎師」や清国人に別れを告げる。その際、「主人」から、7年前の1868年に米仏両国が朝鮮を攻撃した際、清国は奉天から1万5千人ほどの援軍を送ったが、北京駐在の米仏両国公使は極めて緊密に連携し、これを察知した。朝鮮有事の際、日本が兵を動かすようなことがあったなら「清朝亦舊轍を踏み必らず」や援軍を派遣するだろう。その場合は奉天近辺からの派遣が予想される。その際は「上海貴國の領事迄報告すべし」――と告げられたと記している。前後の文脈から「主人」は英国領事と思われるが、なぜ、これほどまでに日本に好意を示すのか。

 日清戦争の戦端が開かれたのは、「主人」が曾根に「上海貴國の領事迄報告すべし」と語りかけたから20年ほどが過ぎた1894年のこと。またロシアの満洲・朝鮮への進出を防止しようとする日本とロシアの南下を警戒する英国との間で日英同盟(第一次)が結ばれたのは、曾根の旅行に遅れること四半世紀程が過ぎた1902年だった。

 常識的に考えるなら英国領事であろう「主人」が示した好意は曾根に対しての個人的なそれではなく、やはり英国外交当局(英国政府)の日本に対するそれと見做すべきだろう。ならば英国は比較的早い段階から日本を、自らのアジア外交における“手駒”に仕立てようと目論んでいたようにも思えてくる。

 やや強引な考えだとは思うが、当時、すでに「主人」(英国政府)は、遠からぬ将来に日清両国の間で朝鮮半島をめぐって武力衝突が起こると予想していただけでなく、その場合は日本側に立とうと目論んでいた。だとするならば、日本は自らの意向に拘わらずに、東アジアをめぐる欧米列強の国際ゲームに参入せざるをえない状況に立ち至っていたことになろうか。


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