2024年11月22日(金)

明治の反知性主義が見た中国

2018年8月22日

 曾根は、「米國輪船」に乗りこみ、山東半島の東北部に位置し、対岸の大連と並んで渤海湾を扼する位置に在る煙台に向かう。第2次アヘン戦争での敗戦から清朝は李鴻章に命じて煙台の防備を固めた。それゆえ、当然のように曾根の「探視」は詳細を極めるが、再び天津に戻り、「英領事」に大孤山一帯への踏査が叶わなかった事情を報告した。

 地方踏査のある夜、曾根は顔かたちも服装も中国人と同じであり、中国語も少し判るわけだから、日本人と疑われることはないだろうと考え、翌朝は清国人の案内を断って独行する。だが、ある軍営の前に差し掛かると、警護の兵士に「何くより來り何を業とするや」と誰何された。そこで天津の西洋商社からやって来た者だと応じた。ならば天津人かと問われたので、広東の生まれです、と。こう答えておけば、怪しい中国語も、広東語訛りだと誤魔化せると考えたのだろう。すると今度は、近寄ってきて曾根の被っていた「假豚尾(ニセ弁髪)」を引っ張りながら、なぜ髪を剃って弁髪にしていないのだと詰問する。そこで曾根は自分から假豚尾を取って見せて、じつは外国には「我國の剃頭師無」く、「我れ大英國に在ること七年にして今春國に歸り髪未だ長ぜ」ず。だから頭に假豚尾を戴いていますと、その場を逃れている。

 時に「滿洲騎兵」に出会うが、「本朝の騎兵に較すれは壯虎と衰牛の如し」。もちろん「壯虎」は「本朝の騎兵」であり、「滿洲騎兵」が「衰牛」ということだ。

「日中の協力」こそ急務と説く

 曾根は悪戦苦闘の大旅行を、次のように“総括”している。

(1)「皆廉耻已に絶え民心殆んと離れ、土人黠詐を尚ひ唯自己の利を計るに汲々たるのみ、嗚呼宜へなる哉滿清の振はさるや、思ふに是れ變換の勢ひ來る遠に非るの由縁なるか」

――すでに廉耻の心など誰も持っていない。民心は清朝から離れ、清国人はウソ・デタラメばかり。頭の中にあるのは自分の利益だけだ。こんなことだから清朝の弱体化は当然であり、そう遠くない将来、必ずや世の中はデングリ返ることになる――

(2)「(山東省は)政体稍存し風尚樸素にして兵備仍ほ張る(中略)と雖も大廈の覆る一木の能く支る所に非す、嗚呼區々たる一省の山東豈能く四百余州の衰運を挽回するを得んや、東洋慷慨有志の徒早く茲に注目し碧眼の猾賊をして變に乘し毒鋒を亞洲に逞うせしむること勿レ若し治に歸せは則ち合心合力東洲を振はし西洲を壓するの急務を策すへし」

――ややマトモとはいえ山東省だけでは衰退する中国を救うことはできないことに、「東洋(にほん)」の「慷慨有志」の士は、深く思いを致すべきだ。狡猾な西欧の賊徒による清朝の変事に乗じてのアジア侵略の野望を挫くべし。中国が安定した暁には日中双方が「合心合力」して早急にアジアの振興を図り、ヨーロッパを圧する策を講ずべきだ――

 曾根は「東洲を振はし西洲を壓する」ために日中双方による「合心合力」が急務だと語る。後のアジア主義の萌芽というべきか。

 最後に、その後の曾根の人生に触れておきたい。

 中国語教育にも努め、大尉昇進の翌年(明治13=1880年)に日本で最初のアジア主義団体といわれる興亜社を結成。中国では孫文や陳少白の革命派、日本では宮崎滔天、さらには『大東合邦論』の著者である樽井藤吉と親交を持った。

 清仏戦争(1884年~85年)を機に『法越交兵記』を著し、アジアに対する政府の関心の低さを指弾。これがきっかけとなり伊藤博文の逆鱗に触れ、明治21(1888)年に筆禍事件容疑で免官となり拘禁されるが、後に無罪。海軍を退役した後、西郷従道らの援助を受け清国に渡り、景勝地の蘇州に居を構え清国政府重鎮の張之洞や李鴻章の厚遇を得た。「大陸浪人」の先駆けともいえそうだ。号は暗雲。中国では曾嘯雲と名乗っていたとか。晩年を不遇のうちに終わっている。

  
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