2024年4月26日(金)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2019年1月8日

 昨年12月に上海で日本の地方銀行数行が主催するセミナーで中国経済の現状と日本企業のあるべきポジショニングについて話しをしてきた。その際に、米中貿易戦争について論点を整理したいと思い、日米中の経済関係年表を作成してみた。コンサルタントの癖として、顧客の問題を解決する際に、まずは、これまでの経緯をねちっこくヒアリングして十二分に現状認識をしないと気が済まないということもあるが、何事もファクトファインディングは問題解決のベースであろうということでまずこの作業を行った。

 そうすると、これまで自分なりに漠然と認識してきた日米中に総合関係並びに米中貿易戦争の本質がより明確に見えてきたようなので、みなさんと共有したいと思い、整理してみた。米中貿易摩擦の先行きは、誰も予想しにくい問題とはいえ、本質をしっかり認識しておけば、今後何らかのシグナルが見えてきた時に、次の展開を予想することができるので、ビジネスマンにとってもしっかり認識しておきたいところではないかと思う次第。

 まず、自分なりに戦後において日米中の経済関係に大きな影響を及ぼしたと思われる事象を書き下ろしてみた。

(NicoElNino/Gettyimages)

米日中の経済関係年表

1945年 日本敗戦。東西冷戦の開始。
1946年—51年 米国の対日占領地救済政府基金。「GARIOA:Government Appropriation for Relief in Occupied Area Fund。13億ドルの無償援助(贈与)。現在の価値で約12兆円(無償は9.5兆円)」
1949年 中国建国。
1950年ー53年 朝鮮戦争。
1951年 サンフランシスコ講和条約。
1955年—61年 米国の生産生向上対日援助。
1955年—73年 日本の高度経済成長期。
1968年 日本GNP世界第2位に。
1969年 中ソ国境紛争。
1972年2月 ニクソン訪中。
1972年9月 日中国交回復。
1973年 第一次石油ショック。
1978年 三中全会。改革開放が始まる。
1979年1月 米中国交樹立。
1979年2月—3月 中越戦争。
1979-2018年 対中ODA「有償資金協力(円借款)約3兆3165億円。無償資金協力を1576億円、技術協力を1845億円。総額約3兆円」
1985年 プラザ合意。それ以降日本企業の対中進出加速。
1986年—1990年 バブル経済。
1989年 冷戦終結。
1992年 南巡講話。
1997年— 平成不況。
2001年 アメリカ同時多発テロ。
2003年 イラク戦争。
2005年—人民元切り上げ「米国の要請を受け1997年から8.277で実質固定」
2008年 リーマンショックと中国への期待感。
2010年 中国GDP世界2位に。
2012年 アベノミクス「第二次安倍政権」
2014年 南沙諸島問題顕在化。
2015年 中国製造2025。
2018年 米中貿易戦争。

年表から見て取れるこれまでの経緯

 次に、年表を見て率直に感じた感想は以下の通り。

  1. 日本と中国の経済成長のきっかけは、共に冷戦構造下における対ソ牽制のための米国支援にあるのではないか。それは主に、資金提供、技術ノウハウ提供と米国市場の開放にあることが見てとれる。
  2. そして、その支援の結果、日本と中国の経済が順調に発展し、米国の覇権を脅かすようになると、米国は牽制を入れはじめるようだ。
  3. 日本に対しては、プラザ合意であり、中国にとっては、2005年からの人民元切り上げ要請もしくは、今回の米中貿易戦争と言える。
  4. 日本は、米国の核の傘に守られた同盟国ということもあり、プラザ合理後の展開は、おそらく米国の許容範囲内と思われる範囲内で推移し、それまでの勢はバブル崩壊とともに失われ、失われた20年と言われる状況が続いている。
  5. この間、日本企業は、円高対応のために、生産拠点を中国など発展途上国に移転することにより国際的なサプライチェインを構築して、生き残りを果してきたが、同時に日本の産業の空洞化と技術の流出ももたらした。
  6. 2012年からのアベノミクスによる円安傾向にも助けられ、日本経済は一息をついている状態で、海外市場に寛容できる大手企業がそのメリットを享受しているが、そもそも、アベノミクスが米国に許容される背景には中国の台頭もあるのではないかと思えてくる。
  7. 一方、中国は、米国からの支援を受け入れるきっかけとなったニクソン訪中の前段階では、中ソ国境紛争があり、ここから米国が中国を取り込み、対ソ牽制を行う戦略であったと言われている。
  8. その結果、1972年に日中国交回復が先行する形で1979年に米中国交が樹立され、日本の対中ODAが実施されたもの、1979年以降となっている。日本のODAは、日本にとっては戦時賠償の一部の意味合いがあったにせよ、実施できたのは、1979年以降というのは、米国との兼ね合いもあったのではないか。いずれにせよ、米国の中国取り込み戦略があっての日中国交回復があると見ていいのではないか。
  9. 中国にとって幸いだったのは、1985年のプラザ合意後の円高により日本企業が海外の生産拠点を求めたいたことにあり、日本企業は、その頃まだまだ良好であった国民感情にも後押しされ、中国の安い労働力と外資導入熱にほだされて中国への進出を加速したことにある。
  10. 1989年は、冷戦が終結。同じくこの年の6月に天安門事件が起こり、西側諸国が経済制裁に走ったが、米国は同年から緩和の動きを見せ、西側諸国も徐々緩和を行った。
  11. 中国は、一旦改革開放の雰囲気が減速し保守化の傾向を見せたが、1992年鄧小平の南巡講話が行われ、改革開放の推進を再確認し、経済成長へのアクセルを吹かした。この後、日本企業の対中進出は円高の再加速も相まって再加速し、中国は、世界の輸出基地としての基礎を築き始めた。※米国の対中貿易赤字の推移
  12. 2005年対中貿易赤字の増加に対し、米国は1997年から8.277で実質固定されていた人民元切り上げを求めたが、プラザ合意後の円相場のような急激な切り上げは実現せず、直近のレートでも6.8782と17%程度の切り上げにとどまっている。※米ドル/人民元推移。この時点から、米国の中国経済の台頭に対する警戒感が表面化してきているものと思われるが、米国は2001年の同時多発テロ以降に対イスラムテロ対策に没頭されており、これがその後の中国の経済並びに安全保証面での台頭を許したと中国でも多くの識者が指摘しているところ。
  13. 2008年リーマンショックで国債の大量増発を迫られた米国は、中国に一部の引き受けを頼んだとされ、それと同時に、世界経済の牽引エンジンとしての、中国経済に対する期待感が高まった。中国は4兆元に及ぶ大型の経済対策を行うなどを行ったが、地方政府の債務の増加や不動産バブルの膨張など後遺症はまだ続いているとされる。
  14. 2010年、中国は日本を抜き世界第2位の経済大国になったが、その後安全保障面などでの攻勢から、米国の警戒感が高まり、今日に至っている。

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