暴力団一掃の「英雄」王立軍
貧富の格差拡大や幹部の腐敗に庶民が怒りを爆発させる中、毛沢東時代の革命歌を歌い、平等だった当時の郷愁に浸り、愛国意識を高めるのが「唱紅」。そして今回、中国政治を激震させているのが「打黒」の方だ。
「黒社会打倒」の略で、暴力団一掃キャンペーンを意味する打黒捜査を主導したのが、今回主役の王立軍副市長である。
内モンゴル自治区出身のモンゴル族で、モンゴル名は「ウエン・バートル」。「真実の英雄」という意味だ。1982年に遼寧省に赴任して84年に派出所副所長になって以降、一貫して同省で警察官として出世を続け、鉄峰市公安局長、錦州市公安局長などを歴任。転機は08年6月に訪れる。前年秋に重慶市に移った薄熙来に呼ばれ、重慶市公安局長に就いたのだ。
遼寧時代から打黒に命を賭けた王は、体に大小の傷が20カ所以上もあるとされ、「打黒英雄」の異名を持つ。薄熙来は、この王立軍の打黒捜査を、自身の政治局常務委入りに向けた政治的実績にしようと目論む。
09年6月からの捜査は、巷では「打黒風暴」(打黒の嵐)と称された。捜査した暴力団グループは375に上り、5789人が摘発された。王は黒社会だけでなく、その後ろ盾となった公安・司法当局幹部による癒着構造を一網打尽にした。その結果、黒社会から賄賂を受け取った容疑に問われた司法局元局長・文強は死刑判決を受け、10年7月に刑が執行された。
文化大革命的手法に批判続出
打黒捜査批判の急先鋒、賀衛方・北京大学教授はこう指弾した。
「法律ルールに違反した運動式の『打黒』は、黒社会がもたらす危害よりさらに甚大だ。半世紀以上にわたり『打』の冠の付いた(中国での)各種運動は、どれだけの無実の罪をつくり出し、どれだけの後遺症をもたらしたか。多くの人は、重慶の『打黒』が良好な治安をもたらしたと好んで話すが、罪なき人が判決を受け、軽い罪の人が重罪となり、治安は一時的に良くはなっても、それがもたらした悪しき結果はいかに計算するというのか」(2月13日ミニブログ「微博」より)
実際に多くの知識人が、「唱紅打黒」で民衆を煽るという1960年代後半の文化大革命を想起させるような、薄熙来の政治手法に批判を強めた。
そのうちの一人、故・胡耀邦元共産党総書記の長男、胡徳平全国政治協商会議常務委員は昨年8月、毛沢東主席に文革での過ちがあったという歴史的評価を下した「歴史決議」(1981年)から30周年を迎えて座談会を主催。文革に否定的な改革派知識人ら約100人を集めたが、実は「薄熙来へのけん制を狙った集まりだった」(出席者の一人)。
胡耀邦と言えば、胡錦濤国家主席の師匠である。胡錦濤は重慶での「嵐」をどう見ていたか――。拙文冒頭、薄熙来が重慶の「唱紅」キャンペーンを評価した6人の政治局常務委員の実名を重慶日報で伝えさせたことに触れたが、この5年間、決して重慶に足を踏み入れなかったのが、胡錦濤、温家宝首相の2人であった。