ペリー来航の背景を考えてみよう。アメリカのアジア貿易の歴史は実に独立前にさかのぼり、19世紀前半に貿易量が急速に拡大する。アメリカの東インド艦隊が創設されたのは1835年のことである。ペリーはこの東インド艦隊を率いて日本に開国を迫ったが、主目的はアジア(中国)との交易に必要なアクセス拠点を確保することだった。東インド艦隊は東アジアに常駐し、1866年にアジア艦隊へと改称される。
保護貿易VS自由貿易が南北戦争の本質
19世紀末にアメリカは「門戸開放」宣言を行い、列強に分割された中国国内の港湾の自由使用を要求するようになる。アメリカの南北戦争は、保護貿易を利益とする北部工業地帯と自由貿易を主張する南部農業地帯の商業政策をめぐる内戦であった。南北戦争は保護貿易を唱える北部の勝利に終わったが、急速に工業生産力を高め、西部の開拓も終わると、アジアとの通商を拡大するために自由貿易を唱えるようになったのである。
他方で、アメリカはスペインと戦ってフィリピンとグアムを奪うとともに、ハワイも領有してアジアへの足場を固めていった。当初、アメリカのアジア貿易はインド洋航路を通って行われていたが、1914年のパナマ運河の開通によって太平洋航路を通じて行われるようになり、通商の拡大につながった。
日米戦争が示すアメリカの「アクセス」重視
このような通商上の利害に導かれるアメリカのアジア戦略は、中国での排他的な権益を拡大する日本のアジア戦略と次第に衝突していった。アメリカは、満州事変以降も日本が中国で勢力を拡大することを止めるために戦争をする気はなかった。
しかし、日本の東南アジア侵攻がフィリピンの安全を脅かし、アジアへのアクセスが危機にさらされると、アメリカは事実上の宣戦布告であった対日石油禁輸に踏み切った。実際、日本は真珠湾攻撃でアメリカの海軍力に大打撃を与えてアジアへのアクセスを阻止すると同時に、東南アジアからアメリカをはじめとする西洋列強の軍隊を追い出す戦略をとった。まさにA2・ADである。
これに対してアメリカは陸海空軍力を投入し、太平洋の島伝いにアジアへのアクセスを確保して日本を降伏させた。日米戦争は、アメリカのアジア戦略がアクセスを重視していることを端的に示している。
「異質な」日本市場の開放を
冷戦期には、アメリカはアジアの自由主義経済圏を共産主義勢力から守るために、同盟網を構築して圧倒的な陸海空軍力を前方展開させた。朝鮮戦争とベトナム戦争という熱戦も経験した。アメリカがベトナム戦争の泥沼にはまったのは、中国という巨大な市場の代わりである東南アジアで共産主義の「ドミノ化」を防ぐためであった。
他方、中国の改革開放によってアジアにおける共産主義の脅威が後退すると、「双子の赤字」を抱えるアメリカの主要な関心は海外からの参入を阻む「異質な」日本市場の開放へと移った。冷戦後もアメリカのアジアにおける主要関心事は日本市場の開放と中国との経済協力の拡大であったが、朝鮮半島や台湾海峡の安定を保つために圧倒的な軍事力をアジアで維持した。
だが、9.11は通商を重視するアメリカのアジア戦略を一変させた。本土への攻撃を200年ぶりに経験し、アメリカは脅威の源泉を取り除くためにアフガニスタンに侵攻しただけでなく、大量破壊兵器がテロの手段として使われることを恐れてイラクにも侵攻した。アフガンそしてイラクへと多くの地上部隊が投入され、水陸両用部隊である海兵隊は「第二の陸軍」となり、さらには予備役や州兵、海軍や空軍も地上戦にかり出された。
こうしてアジアにおけるアメリカ軍の構成は陸上戦力が突出してバランスを失ったが、一方でこれだけの規模の戦力を投入できたのは、アメリカがアジアへのアクセスを維持していたからである。