2022年12月10日(土)

足立倫行のプレミアムエッセイ

2021年3月13日

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当時の日本は子どもにとっていかに過酷だったか?

 当時の日本が子どもにとっていかに過酷だったかを示すのが、同じ昭和23年の1月に東京・新宿で発覚した寿産院事件である。

 木箱を運ぶ不審な男が路上で尋問され、箱から乳児5人の遺体が発見された。

 犯人は木箱を出した産院の経営者夫婦だった。産婆とその夫が、新聞広告などにより、子どもを産んだものの育てられない親から高い養育費を取って乳幼児をもらい受け、ろくに食事を与えず、体調を崩しても手当てせず、放置していたのだ。

 そのために死亡した乳幼児は、4年間に100~150人と推定されるが実数は不明である。

 呆れるのは、夫婦が産院用のミルクや米など特別配給品まで闇市に横流しして、私腹を肥やしていたこと。つまり、乳幼児の命の値段は配給品より安かったのだ。

 戦後間もない時代、子どもは次々に生まれていたが、次々に死んでもいたのである。

 その悲惨な事件が話題になった時、ちまたにはやたら陽気な、「心ずきずき わくわく」の『東京ブギウギ』(笠置シヅ子)が流れていた。ほんの少し前までは夢想すらできなかったタイプの歌だった。

 そして秋10月には、頭のてっぺんに抜けるような声で岡晴夫の『憧れのハワイ航路』。「希望(のぞみ)はてない はるかな航路」である。

 実際の世相は、「こんな女に 誰がした」の『星の流れに』(菊池章子)や、「友よ辛かろ 切なかろ」の『異国の丘』(竹山逸郎・中村耕造)のような、敗戦を引きずる暗く屈折した心情だったのだろうが、国民の多くは反面で一刻も早く過去と訣別したいと思い、ことさら明るい歌を欲したに違いない。

 そんな(やけくその?)未来志向があったからこそ、当時の青年男女は、後年「団塊世代」と呼ばれる年間280万人前後のたくさんの子どもたちを、昭和22年から24年にかけて毎年この世に送り出したのだと思う、

 私の世代は食料事情の悪さなどで幼少期に苦労させられたが、むろん生存を助けてくれる人もいた。

 母は日記帳の最終ページに、私宛の出産祝いを貰った人の一覧表を載せている。

 〈安来(実家)     袷  一着

             綿入 二着

             襦袢 一枚

  三軒屋(永井様)   布地 米一升

  大沢(松本様)    米一升

  赤江(井上様)    二〇〇円

  米子(森本様)    二〇〇円

  外江(小玉屋)    四〇〇円

    (角様)     一〇〇円

    (竹内様)    一〇〇円

    (原田様)  おしめカバー

    (角様)    魚 カレイ

  境(木下様)      米一升

    ―略―               〉

 親戚中心で計16人。祝金は計1000円だが、週刊朝日編『値段の明治大正昭和風俗史(上)』(朝日文庫)によると、昭和23年1月の国家公務員の初任給が2300円だから、その半分近くになる(ただし、同年12月には4863円と超インフレが進行中だった)。

 いずれにせよ、私の両親を知る多くの人が、当時としては精一杯の祝意を示してくれた。祝金の合計は思いのほか多い気がするが、誰もが姉の急逝を知っていたので、「次の子」である私への同情の意味もあったのだろう。

 母は、私の誕生から1カ月ほど経った日に、次のように書いている。

 〈四月二十八日

    ―略―

 せめて倫行に乳を飲ませる間だけでも、楽しい心で、和やかな心でゐたいと思ふ。

幼い者が一生懸命すがってゐるのをみると、強く生きねばならぬと思ふ。〉

 私の原点はここだったのだと、70年以上生きてきて、今さらのように感じる今日この頃である。

  
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