足立倫行のプレミアムエッセイ

2021年3月13日

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(Alexeg84/gettyimages)

 亡くなった母の日記帳が1冊だけ残っている。その第1ページは昭和23年(1948)3月25日。すなわち私の誕生日だ。

〈三月二十五日 晴

 昨日来、時折腹が痛む。今朝から尿意頻繁、陣痛用(ママ)のいたみを覚えいよいよ今日あたりと思ってゐる〉

 続いて、手伝いに来た親戚の誰彼のことや出産の準備のこと、多忙でなかなか立ち寄ってくれない産婆のことなどが記され、やがて自宅での出産を迎える。

〈(産婆が)帰って着替えて来られるまでに出そうな気がしていたが、いきみがつく様になってから来られた。(親戚の)小玉やの小母さんと(安来の実家から駆けつけた)御母さんに手を握って貰って、午後七時、出産。

 男の子、一貫百二十匁(4・2キロ)の大きい坊や。(夕方まで家にいた)主人もいきみの終りに帰って来た。小玉やへ待避してゐた。顔洗って来た所だったとか。〉

 当時、父は23歳で、母は22歳。私はとても若い夫婦の長男として生まれた。

 長男の私の出産について母の日記があり、その後2年ごとに生まれた次男、3男の弟たちの時は日記がない。母は、後にも先にも私の誕生後数ヵ月しか日記を書かなかった。

 なぜか。私が生まれる半年前(前年9月)に、私の姉の長女(淑(とし)美(み))が、栄養失調が原因と思われる自家中毒症のため、満1歳8カ月で死亡していたからだ。

 母の言葉を借りれば、「お前は淑美ちゃんの生まれ変わりのように」、この世に生を受けたことになる。

 私の生まれた年の9月12日は姉の1周忌。母は同じ日記に次のように記している。 

〈九月十二日

 淑美がこの世から永久に姿を消してから早や一年が経った。

 淑美ちゃん!! 思へば心がいたむ。

 えぞ菊と紫苑をたづさへて夫と二人で墓へお参りしてやった。しめつけられるやうに悲しい痛ましい思ひ出だ。

 二時すぎに息を引き取った。悲しみのどん底に陥った。

 可愛かった淑美ちゃんを思ふと堪らない。

 今日は、倫行の無邪気な寝顔を覗いて、感慨一しほ。(数語、判読不明)

抱きしめて、淑美への思慕の情、やる方なく涙した〉

 この頃、我家はとても貧しかった。

 父は昭和21年(1946)10月に、海外から旧軍人・民間人を船で連れ帰る復員官の業務を終え帰郷したが、元海軍大尉だったため公職追放となり、まともな職に就けなかった。

 しかし、一家の唯一の男手として、世帯主として、祖母と10代の妹2人、新婚の妻と生まれた娘、計5人を養わねばならなかった。

 闇商売などさまざまな臨時仕事をしたが、私が生まれた頃は、親戚の小玉屋菓子店で特訓を受け、芋飴屋の真似事をやっていた。母も飴や傘の行商で近隣の村々を回ったりした。

 それでも生活は苦しく、授乳期を終えた娘・淑美に栄養充分な食事を与えられなかったのだ(下痢をしやすい彼女の体質も災いした?)。

 もっとも、戦後間もないこの時期、幼くして亡くなる子どもは決して珍しくはなかった。ミルクはもちろん、米、砂糖などの生活必需品はほとんど配給で、たやすく入手できなかったからだ。

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