栗島すみ子より3つ若い水谷八重子(1905~79年)は牛込の神楽坂(新宿区)の生まれで子役の頃から新劇で活躍していた。栗島と同じ1921年には新劇の演出家が実験的に作った映画「寒椿」で映画デビューしており、このフィルムは保存されていて見ることが出来る。ただし当時は名門雙葉高等女学校の生徒として映画ごときに出ることははばかられてタイトルでは「覆面令嬢」となっている。のち新派を背負う大女優になるが映画でもときどき出演して名演技を見せている。
伏見直江(~1982年)は1908年、深川は門前仲町(現江東区)の生まれで小津安二郎とは生家が近い。旅芝居の役者だった父親が深川座という芝居小屋におちつき、そこで生まれ、子役として自分もそこに出るようになったのである。さらにこの劇場が一座をあげて参加した連鎖劇という,芝居の合間に映像を入れる日本独特の見世物に出て映画会社と協力したことから、やがて映画女優にもなった。こうしてみるとやはり東京は各種の演劇と映画会社が集中している特別な地域だったから、東京に生まれ子役として舞台に出ているうちに映画にも出るようになった人が女優にも多いことが分る。伏見直江はのち、日活京都で大河内傳次郎(1898~1962年)と名コンビの大スターになり,女だてらにチャンバラでも人気を高めた。妹の伏見信子は1915年の浅草区小島町(現台東区)の生まれ。姉とは違ってぐっとモダーンな役に良い。小津安二郎のサイレント時代の名作「出来ごころ」(1933年)などが素敵だ。
夏川静江(~1999年)は1909年、芝区桜田本郷町(現港区)の生まれ。子どもの頃、有楽座の「子供デー」のお伽劇に出て芸能界につながった。映画デビューは1917年、日本映画の近代化の最初の試みとされる映画芸術協会の「生の輝き」だった。1920年代・30年代にスターとして活躍し、とくに文学作品の映画化などで知的な輝きを持つ作品のヒロインとして大切にされた。「若い人」(1937年)「小島の春」(1940年)などがある。晩年も地道にやさしい品のいい老婦人役をつとめあげた。彼女が現れると画面に落ち着きが生じるという感じだった。
桑野通子(~1946年)は1915年、芝区三島町(現港区)の生まれ。家は田村町でとんかつ屋をやっていたという。女学校を出て赤坂溜池のダンスホール「フロリダ」のダンサーからスカウトされて松竹蒲田撮影所に入った。洋装の似合うモダーンな女性として珍重された。「兄とその妹」(1939年)、会社のOLの役で社長が日本語でしゃべるビジネスレターを耳で聞いただけで英文タイプライターに打つ、こんな役を何気なく演じられる新しい女優だったのだ。娘は桑野みゆき。
(次回は東京都出身の女優・戦後編の予定)
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