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2021年4月13日

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樫山幸夫 (かしやま・ゆきお)

元産經新聞論説委員長

元産經新聞論説委員長。政治部で中曽根首相番、竹下幹事長番、霞クラブ(外務省)詰め、ワシントン特派員、同支局長、外信部次長、編集局次長、正論調査室長兼論説委員、産経新聞社監査役を歴任。2度のワシントン勤務時代は、ホワイトハウス、国務省などを担当、米国の内政、外交など幅広く取材した。

直談判で懸案妥結狙うも決裂

 第2のケース、懸案解決のための首脳同士の直談判としては、〝決裂〟に終わった1994(平成6)年2月の細川ークリントン会談がある。

 この会談は、日米包括貿易協議を首脳同士の話し合いで決着させることが目的だった。

 包括協議は、政府調達、金融サービス、半導体、自動車、その部品などについて日本の市場開放促進を目的に前年から行われていた。輸入の数値目標設定を求める米国と、これを呑めない日本側が激しく対立。

 両首脳のひざ詰め談判で妥結させようとの双方の期待もむなしく、ついに一致点は見いだせなかった。

 クリントン大統領は「中身のない合意で表面を糊塗するだけならやめたほうがいい」と不機嫌を隠さず、協議の妥結どころか日米の貿易戦争に発展するかに思われた。

 しかし、さすがに両首脳とも、そうした事態は望まなかった。大統領は翌日、細川護熙首相と夫人をホワイトハウスに招き、朝食をとりながら歓談、前日の気まずさを解消した。

 協定の妥結にこそ至らなかったが両首脳の親密な関係を誇示し、同盟関係にいささかの揺るぎもないことを内外にアピールする狙いだった。

 そのせいでもあるまいが、同協議はこの年の秋から96(平成8)年にかけて順次合意に達する。

首相の失言が同盟揺るがす

 第3のパターン、同盟関係を揺るがし、日本の内政に悪影響をもたらしたケースとして、真っ先に思い浮かべるのは1981(昭和56)年5月の鈴木ーレーガン会談だ。

 事の発端は、会談後の共同声明にからむ鈴木善幸首相の〝失言〟だった。

 この声明には、初めて「同盟」という言葉が盛り込まれたが、首相は発表後の記者会見で、あろうことか「(同盟に)軍事的意味合いはない」と説明、周囲を驚かせた。

 いまでこそ日米関係の代名詞のようになっているが、当時としては画期的だっただけに、首相は周辺諸国を刺激することを恐れたのかもしれない。単に無知だった可能性もあるが。

 あわてた日本政府は「軍事的側面を持つことは認めるが、あらたな意味合いを付加したものではない」と舌足らずな統一見解で〝火消し〟をはかった。

 米国は詭弁を弄するような日本政府に疑念を抱き、「〝同盟〟は日本に押し付けたものではない」「軍事的な意味合いを、ことさらふりかざすつもりはない」などと突き放した態度に終始。その後しばらく日米間のしこりとなって残った。

 共同声明作成作業に当たった外務省は首相に強く反発、伊東正義外相が抗議の辞任をするおまけまでつき、政局の不安定化をもたらした。

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