2024年12月6日(金)

WEDGE REPORT

2021年4月7日

 北朝鮮が東京五輪への不参加を表明した。新型コロナウィルスによる選手への健康被害を避けるためという。

  選手団と合わせて高官が来日すれば、日朝関係改善につながるとの期待は潰えた。

 北朝鮮は実は、1964(昭和39)年、前回の東京五輪の際も、選手団を派遣しながら急遽参加を取りやめ、開会式2日前に帰国した。北朝鮮と東京五輪とは縁が薄いようだ。

(Oleksii Liskonih/gettyimages)

IOCの資格取り消しに反発

 前回の東京五輪は、1964年10月10日から15日間、開かれた。

 北朝鮮選手団は開会式数日前に東京に到着しながら、8日夜になって参加中止を決めた。

 日朝関係など政治的な理由からではなく、国際陸上競技連盟によって資格を停止されていた800メートルの世界記録保持者、辛金丹選手らの参加が認められなかったためだった。

 そもそものきっかけは前々年の1962年(昭和37)年にインドネシアで開かれたアジア大会にさかのぼる。

 スカルノ大統領(当時)は中国と良好な関係を維持するため、IOC加盟の台湾とイスラエルを招待せず、この大会は正式な競技大会として認められなかった。インドネシアはIOCから資格停止の処分も科された。

 スカルノは対抗措置として翌年、「新興国スポーツ大会」を開催したが、各国際競技連盟は、この大会に出場する選手の資格を停止すると警告した。

 多くの国が参加を見送る中、北朝鮮は選手団を派遣、辛選手もそのために資格を取り消された。

 北朝鮮選手団が到着してからも、東京五輪組織委員会の与謝野秀事務総長(故与謝野馨官房長官の父君)が中心になって、処分取り消しをIOC(国際五輪委員会)に働きかけた。

 しかし、北朝鮮側が資格のない辛選手の選手村入村を要求するなどルール無視の態度にでたことも心証を害し、与謝野氏らの奔走もむなしく、IOCのブランデージ会長(当時)が最後まで参加を認めなかった。

 北朝鮮選手団は新潟発の万景峰号で帰国の途に就くため、9日午後、上越線の急行で東京を離れた。この模様はテレビニュースで報じられたが、なかにはいかにも北朝鮮らしく肩をそびやかしている選手もみられたが、みていた筆者は、子供心にも、開会秒読みで帰国を余儀なくされた選手団の胸も内を思い気の毒でならなかったのを覚えている。

 この時、辛選手が、朝鮮戦争の混乱で離ればなれになっていた父親と東京で14年ぶりに再会、わずか15分だけの「涙の対面」を果たしたという悲話のおまけまでついた。 

インドネシアも参加取りやめ

 急遽、参加をとりやめたのは北朝鮮だけでなく、騒ぎの〝張本人〟のインドネシアも資格が認めらない選手が含まれていたことから出場を断念した。

 インドネシアは翌10日の開会式と同時刻、与謝野氏の見送りを受けて羽田空港を出発した。

 ついでに言えば、この時の東京五輪には中国も参加を見送っている。あてつけのように平和の祭典である五輪期間中の10月16日、初めての核実験を強行、世界を驚かせた。

 ジャカルタのアジア大会をめぐる騒ぎでは、大会に参加した責任を取って当時の東京五輪組織委員長、津島寿一、事務総長の田畑政治の両氏が責任を取って辞任する事態に発展した。一昨年に放映されたNHKの大河ドラマ「いだてん」でもこの経緯に触れていたのでご記憶の向きもあろう。

ソウル五輪では大韓機爆破

 北朝鮮はその後も、1988(昭和63)年9月に開かれたソウル五輪をボイコット。これを妨害する目的で、その前年に大韓航空機爆破事件を引き起こしている。

 実行犯の工作員2人のうち1人は若くて美人、日本人名義の旅券を使用しての事件だったことから、大きなセンセーションをまき起こした。北朝鮮のテロが日本国内でも強く警戒されるようになったのは、この事件以後だ。


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