近年、あまり聞かれなくなった言葉に、「清廉潔白」、「謹厳実直」がある。「井戸塀政治家」もそのひとつだろう。
古い言葉を持ち出したのは、総務省の接待疑惑に関与した政治家、役人の卑しさに呆れたからだ。
かつては、金銭、名誉などに目もくれず、ひたすら国のために奔走した人たちがいた。官僚時代に出世を2度も辞退した総理大臣、馬肉が唯一の好物という野党第一党委員長……。清貧に甘んじた大先輩たちは、不肖の後輩のご乱行に眉をひそめているかもしれない。
〝ライオン首相〟の自宅は借家
古くは明治の元勲、西郷隆盛、自由民権運動の闘士、板垣退助らを思いうかべるむきもあろう。そんな歴史上の人物にまでさかのぼらなくとも、昭和以降でも、偉大な政治家は何人もいた。
筆者は〝独断と偏見〟で、昭和初期の宰相、浜口雄幸を真っ先にあげたい。
1929(昭和4)年に総理大臣に就任、日本経済を世界の標準に合わせることを目的に金輸出解禁(金解禁)を断行した。主要艦以外の制限をめざしたロンドン軍縮会議では、海軍軍令部の猛反対を押し切って調印。強い信念、誠実、剛毅な人柄とその容貌から〝ライオン宰相〟と親しまれた。
しかし、世界恐慌のあおりで景気は悪化、軍縮会議では補助艦のトン数で欧米より不利を強いられたため、不満を持つ青年に東京駅ホームで撃たれ、志半ばで倒れた。
浜口が偉かったは、まず公私混同をしない。破格の収入を伴う高い地位にも目をくれず、ひたすら自らの職務に精励した。質素、謹厳実直という表現は、数多くある浜口の伝記に必ずと言っていいほど登場する。
首相の印綬を帯びて自宅で新聞社の写真撮影に応じた時、カメラマンに「あまりマグネシウムをたかんでくれ。借家だから天井を焦がしては家主にすまぬ」とあわてて制止した。当時はカメラの照明用にマグネシウムを発火させていたため、熱で家を傷めることを心配したらしい。記者団は笑って相手にしなかったが、本人はいたってまじめだったという(城山三郎『男子の本懐』)。
首相に就任してから、鎌倉の別荘で週末の静養をとることがあった。わずか4、50坪、2階屋ながら階段は段梯子というあばら家。ゴルフをするでもなく、随筆を書いたり、思索にふけった。その鎌倉行ですら、「面倒だ」といってめったに出かけなかった。
出世断り地味な仕事に精励
破格の出世を2度断っている。
最初は専売局長官として塩田整理という厄介な仕事に取り組んでいるとき。初代満鉄総裁の後藤新平が、堂々たる見識を持ちながら誠実な態度で地味な仕事に黙々と取り組む浜口にほれ込み、満鉄理事に来てほしいと口説いた。
国策会社、南満州鉄道の理事といえば、中央官庁の次官以上といわれ、報酬もはるかに多かった。華やかさに欠け、中小の製塩業者からの恨みを買う損な役回りから逃げ出すには、渡りに船という以上だったろう。
浜口は惜しげもなく断った。「今の仕事を途中で投げ出すわけにはいきません」というのが理由だった。
後藤の誘いはこれで終わらない。第2次桂太郎内閣の逓信大臣に就任すると、今度はその次官の椅子を用意した。浜口はまたも「塩田整理がまだ終わっていませんから」とにべもなかった。
こうなるともはや頑迷という方が適当だろうが、後藤もしぶとい。桂の3回目の組閣で逓信大臣に再度就任したのを機に3たび浜口を口説く。
延々と続いた塩田整理も終了していたため、浜口も今度は断る理由がみつからず、ついに逓信次官のポストを受けざるをえなかった。
内閣が短命であることを承知で、後藤の恩義に応えるためにあえて引き受けた(川田稔『浜口雄幸 たとえ身命を失うとも』など)あたり、いかにも浜口らしい。
大風呂敷というあだ名を奉られた後藤と、正反対のタイプの浜口の心の触れ合いも興味深い。
近年、政界の有力者とのコネクションを求め、その力を利用してのし上がろうという目前が利く官僚が少なくないことを考えると、浜口の行動は愚直とでも評すべきか。
現代史研究家の間でも浜口の点は高い。波多野勝は「金権腐敗で名を高めた首相は数多いが、公明正大、謹厳実直という視点で国民の付託を受けた首相は浜口ただ一人と言い切っても過言ではない」(『浜口雄幸 政党政治の試験時代』)と激賞する。