2024年4月20日(土)

この熱き人々

2012年12月6日

 それが売れた。増刷されて今度は出版社が続編を頼む。大きく宣伝してもらったわけではない。行きがかり上、仕方なく産声を上げた作品を、生かし、育て、次々と新シリーズを求め、作家・佐伯に新しい確かな命を与えたのは紛れもなく作品を愛した読者たちである。

 57歳からの年月を、激動の日々と佐伯は言う。懸命に書いても書いても売れなかった時代から、いきなり出版社が常に原稿を待っている生活になった。10を超えるシリーズを同時に進行させる器用さはない。一人の主人公に集中して20日で1冊を仕上げる。朝4時から机に向かって午前中いっぱい書く。午後は校正などにあて、早く寝る。その繰り返し。

 「売れない時の苦しさと比べたら、原稿を受け取ってくれる出版社があって、それが読者に届くことがどんなに幸せか。僕の作品は文学賞の対象になる芸術作品ではない。人間を深く重く掘り下げるものでもない。読者の方に喜んでもらうための600円の商品です。書き下ろし文庫を始める時にそう覚悟しました。そのために僕の毎日はあると思っています」

 佐伯は自らを職人作家と言う。職人は自分の美学のためではなく、依頼主の望みを叶えるためにもてる技量を誠心誠意傾けて仕事をする。佐伯の作品群がなぜかくも愛されるのか、ふと垣間見えたような……。

 先の希望も見つからず、日々不条理に身悶えし、不安を抱えながら生きている人々に、満員電車の中で読む佐伯ワールドは束の間の救い。最も多くの人が読んでいる『居眠り磐音』の主人公・坂崎磐音は、親友を斬り、婚約者を失い、離藩して浪々の身となる。生きるために用心棒でもウナギ割きでも何でもしながら、子どもにも敬語で話す春風のように穏やかなやさしさを失わない。日溜りでまどろむ猫のような磐音は、それでいて滅法強い。さまざまな出来事に翻弄されながら懸命に生きて、六畳一間の金兵衛長屋の周辺には人情あふれる人たちがいる。

 現代ではありえない! と斜めに構えることも、時代小説だと素直に、ああいいものだなあと受け入れられる。そんな温かく痛快な気分が読者の日々の糧になる。遠い江戸時代から現代人に送られる爽やかな風を、読者はひたすら待ち望む。職人作家の佐伯は、読者の注文に応えるべくひたすら書く。たとえ休みがなくても、そんな日々は佐伯にとってもまた喜びなのだと言う。そしてこの日も、朝4時に起きて『居眠り磐音江戸双紙 木槿(むくげ)の賦』第42巻の5章を書いた。

佐伯 泰英(さえき やすひで)
1942年、福岡県生まれ。大学卒業後、71~74年までスペインに滞在、帰国後はスペインや闘牛をテーマにした作品を発表。99年より時代小説に転向し次々とヒット作を発表、ベストセラー作家に。文庫書き下ろしというスタイルで、『居眠り磐音 江戸双紙』(双葉社)など多数の人気シリーズを手がける。

◆「ひととき」2012年12月号より

 

 

 

 

  

「WEDGE Infinity」のメルマガを受け取る(=isMedia会員登録)
「最新記事」や「編集部のおすすめ記事」等、旬な情報をお届けいたします。


新着記事

»もっと見る