「技術さえもっていれば生きていけると思っていました」
映像技術の習得を目指して上京、日大芸術学部で映像の勉強をした。学生時代、東京オリンピックが開催され、市川崑監督の記録映画の撮影助手として参加したという。
「映画なら大丈夫と計算して映像の仕事を始めたんですが、映画会社が軒並み凋落し始めた時でした。カラー映像の技術者がいない時代で、カラーテレビが普及したテレビの世界に映画技術者が拾われた。CM制作にも携わったんですが、高度成長期で一番下の撮影助手でも日当8000円くらい。日雇いでも十分食べていけたんです」
サラリーマンの月給が3万円程度の時代、日雇いでも超高給。スタジオにこもっていて高給は使う暇もなく、お金は貯まっていく。が、佐伯はCMの世界で生きていけそうもない自分を感じていた。
「どうも組織で部分的に関わるのがダメみたい。全部やらないと気がすまない。ここから出よう出ようと思っていました」
貯まったお金とカメラを抱えて、横浜港からナホトカに向かい、シベリア鉄道でヨーロッパに入り、フランス、スペイン、そして東南アジアを回って帰国。CMの世界と決別して生きる道を見つけるはずだったが、東京に帰って撮った写真を現像してみたら、ただの観光写真でしかないということに気づかされた。じっくりと定住してテーマを絞ろうと決意した佐伯は、今度は妻と一緒にスペインに渡った。前回の旅で漠とした魅力を感じたスペインで暮らす。そこで何に出会うか、成り行きに身を任せる。そんな佐伯の心を捉えたのは闘牛だった。
「たまたまスペインの闘牛の黄金時代だったんです。フランコ独裁政権の末期、政権側も伝統芸能で人々が気持ちを発散させるのが一番の安全弁だったし、人々もお祭りが不満のはけ口。年一度の祭りの日にパーッと集まってドンチャン騒ぎをする。その中心が闘牛でした。何も知らない世界だったけど、とにかく面白い。心が動いて、それならもっと近くで見よう、そのために、祭りの開催される町から町へ移動していく闘牛士を追って、自分の車に水や布団を積み込んで取材していました」
そんな日々が4年続いた。帰国後も幾度となくスペインに渡り取材を続けたが、やがて最も力を入れて取材していた闘牛士パキリ(フランシスコ・リベーラ・ペレス)の死が訪れる。
「たぎる思いをぶつける観客を堪能させることのできる、サービス精神にあふれた闘牛士でした。最下層から這い上がって名声を得て大貴族の娘と結婚、引退を目前にした最後の舞台で、貧弱な牛の角に刺されて死んだ。僕は、パキリによって闘牛とはこういうものだと死をもって教えられたと思っています」
パキリの死は、佐伯と闘牛との関わりの転機となった。