しかし、毛沢東の圧倒的な権威の下で土地改革と集団化が進んで行く漢人社会と、余りにも社会主義思想とは疎遠で生産力も低いチベット社会との違いは明らかであり、その現実が中共チベット工作委員会を大いに焦らせた。毛沢東は当初、「チベットでは条件が揃わなければ改革を先延ばしにして良い」とした。しかし、出先の党官僚にとって、毛沢東の理想が自らの任地でいつまでも実現しないことは自らの政治的失点につながると思うのは当然である。
そこで、中共チベット工作委員会はチベット政府を無視して「改革」を進めようとし、自ずとチベット政府関係者との軋轢が深まった。しかも、甘粛・青海・四川のチベット人地域でも1956年以後集団化・人民公社化が進められ、既存の生活・生産様式が乱された結果抵抗の烽火が上がった。ダライ・ラマ14世のインド亡命によって広く知られる1959年春のチベット動乱は、決して突発的なものではない。中共が国際政治の空隙を衝いてチベットの現状を強引に変更し、さらには政治・社会・文化をめぐる解釈権をチベット人から奪い独占しようとした結果である。
毛沢東時代以来の恐怖政治に苦しむチベット
以来、中共は凄まじい「文攻武嚇」をチベットに振り向け、抵抗する寺院は文化財を除き悉く破壊された。そして、燦爛たるチベット仏教文化に侮辱の限りを尽くすべく「世界で最も残酷で暗黒なチベット農奴制社会を解放した中共こそ、進歩と人権の担い手である」という言辞を弄んだ。
そのような中、中共が掲げる「平等」への共感や、清代以来仏教で結ばれたチベットと中国の関係ゆえに、中共が掲げる「帝国主義からの解放」に理解を示し協力した(=「統一戦線」の対象として抱き込まれた)人々はどうなったか? 彼ら僧侶や伝統的な支配層も、今や中共が全面的に支配し、たたき上げで養成した共産党員を主軸として計画経済を進める上では、もはや余計な異分子的存在に過ぎない。そこで冷遇された彼らが「こんなはずではなかった」と抗議すれば、批判大会にかけられて投獄され、あるいは抹殺されるのみであった(ダライ・ラマ14世と異なり中華人民共和国に残ったチベット仏教ゲルク派第二の活仏であるパンチェン・ラマ10世は『七万言上書』を著し、チベットの大混乱と苦境を毛沢東に直訴した結果投獄された)。
そして今ふたたび、チベットは毛沢東時代に近い恐怖政治に苦しみつつある。
毛沢東時代の極端な政治は、いったん胡耀邦総書記によって全面的に是正され、1980年代以後のチベットでは急速に寺院が復興した。また、中共はチベット亡命政府の視察団を受け容れるなど、関係改善を模索しなかったわけではない。
しかし、究極のところ、普遍たる仏教文化に強い誇りを持ち自由を求めるチベット人の声は、物質の発展と富国強兵こそすべてと見なす中共の支配には馴染まない。
まず、1987〜89年にラサで起こった独立運動は、戒厳令で弾圧された。