2024年4月20日(土)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2012年11月19日

国家主権の名において常に干渉しようとする中国

 90年代に入ると、1989年に死去したパンチェン・ラマ10世の生まれ変わりの子供を探すにあたり、ダライ・ラマ14世はもとより多くの現地・亡命チベット人は、あくまでチベット人・仏教徒が主体となって選ぶことを目指した。しかし中共は「チベットの重要な問題は全て、清から主権を継承した中国中央政府が決めるべきで、乾隆帝が活仏選びのために定めた、数人の候補を選んでくじ引きを執り行う方法に従うことこそ中国の国家主権のあらわれである」という立場に固執した。これは、宗教を否定する共産主義者が宗教指導者を選ぶという荒唐無稽な政教一致であるが、その結果ダライ・ラマ14世が認定した少年は幽閉され、未だに行方不明である。中共が選んだ「パンチェン・ラマ11世」も、何とも居心地の悪いまま今や成人し、中国の公式行事で「愛国活仏」として振る舞うしかないという哀れな存在となっている。

 二人の子供は一切悪くない。これは宗教の問題に対し、国家主権の名においていつでも干渉しようとする中国ナショナリズムの問題である。このとき中共は「愛国活仏を選ぶ過程そのものを国家主権のあらわれとして国内外に明示するはずが、分裂主義分子ダライに妨害された」という発想を強め、その結果チベットにおける1995年以後の「愛国主義運動」は、圧倒的に「ダライ・ラマへの糾弾」として展開された。

 チベットをはじめとした「少数民族」地域における1999年以後の「西部大開発」は、単に経済発展を内陸部にも及ぼすのみならず、「少数民族の物質生活が安定し、祖国全体との紐帯を感じることが出来れば、ダライなど分裂主義分子のもとに走らず、『中華民族』の自覚を高めるだろう」という思惑と不可分であった。しかし、その結果チベットで急激に開発が進み、漢語を自由に操れないチベット人が格差社会の中で置き去りにされ、増大する国力を背景に「愛国主義教育=ダライ・ラマ批判」が熾烈を極めたからこそ、北京五輪に先立つ2008年春に独立運動が噴出したのである。

許可証なしに聖地ラサに出入りできないチベット人

 中共は、リーマン・ショック以来いっそう「世界経済の牽引車・中国市場の魅力」というイメージ戦略で世界を手玉に取り、国際社会の懸念に一切耳を貸さず、今や弾圧は森厳を極めている。聖地ラサは、漢人であれば自由に出入り出来るものの、肝心のチベット人は許可証がなければ排除されるという有様である(チベット人作家ツェリン・ウーセル氏のブログ『看不見的西蔵(見えざるチベット)』にある、「党大会を控えて北京から追放され故郷ラサに戻ろうとしたところ、その途上でもチベット人であるが故に散々妨害に遭遇した」という経緯は、不条理以外の何者でもない)。


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