そして、冒頭でふれたように、初瀬は「第20回全日本視覚障害者柔道大会」90キロ級に出場。目が見えなくなってから柔道を再開、初めて参加した大会で見事優勝を遂げた。
この全日本視覚障害者柔道大会に優勝した権利により、翌年フランスで開催されたIBSA柔道世界選手権大会に出場したものの1回戦で敗退。その後、敗者復活戦でも敗れ、団体戦でも苦杯をなめさせられた。初の国際大会は完膚なきまでに叩かれたが、その後同年開催のフェスピック・クアラルンプール大会(アジア大会)では優勝を手にした。
全日本視覚障害者柔道大会の90kg級では7連覇。2012年開催の同大会では81kg級で初優勝。2008年には世界最高峰の障害者スポーツ大会『パラリンピック北京大会』にも出場を果たしている。
現在はブラジリアン柔術を取り入れ、リオデジャネイロ・パラリンピック出場に向け寝技の強化に余念がない。
「障害者にはみんなドラマがあります。私のように途中から障害を負った人は必ず壁にぶつかります。スポーツに出会い、スポーツのおかげで壁を乗り越えることができたという方が多いんです。僕の場合は柔道を始めることによって、自分が許せるようになれました。まずは勇気の一歩を踏み出すことが大切です。でも、人はその一歩がなかなか出ないんですよね。私の場合は1年半くらい掛かりました。障害は個性とまでは言いませんが、今ではそれなりに楽しいと言えるようになっています。目が悪くなって自分が一番変わったことは人に感謝し、ご縁に感謝できるようになったことです」
パラリンピックを目指す障害者アスリートたちの「壁」
1948年ロンドンオリンピックの開会式と同日、ロンドン郊外にあったストーク・マンデビル病院内で行われた車いすによるアーチェリー大会がパラリンピックの起源である。
参加者は男子14名、女子2名の車いす患者(英国退役軍人)16名だった。
開催当時すでに「将来的にこの大会が真の国際大会となり、障害を持った選手たちのためのオリンピックと同等な大会になるように」という展望を持って始まったというのだから、その気宇のスケール感に驚くほかはない。
それから64年。脊髄損傷患者のリハビリテーションの一環として始まった競技会は、2012年ロンドンパラリンピックでは、164の国や地域から4310名の選手が参加し、20競技・503種目が競われまでに発展を遂げた。ちなみに日本からは134名の選手、121名の役員が参加している。
このシリーズでは世界最高峰の障害者スポーツ大会『パラリンピック』を目指すアスリートたちの「乗り越えてきた壁」に焦点を当て、スポーツの価値や意義を問うと共に障害者アスリートを取り巻く環境について取材していきたいと考えている。
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