その初瀬が変われたのは長崎県大会で3位になった高校2年生の時だ。優勝には手が届かなかったものの、ベスト8で県内のチャンピオンに勝利したことが自信に繋がっていった。
高校3年生の時には長崎県の強化選手に選ばれ周囲の期待を感じた。
「周りの先生たちにしてみればインターハイに出場して、もっと上を目指してほしかったようですが、中学、高校の6年間しっかり柔道をやって、それなりに活躍したつもりなのでいったん引退することにしました」
県内トップクラスの進学校に通う初瀬には、東京大学に進学し、その後、法律家になるという目標があった。それが母と子二人の夢だった。勉強、柔道ともに好成績を残し、学校の寮生活では自治組織の会頭を務めてきた自信が、希望に満ちた未来を胸に描かせていた。
緑内障で視力を失い「死にたい」と泣く日々
だが、初瀬の人生に一つ目の転機が訪れた。東大受験に失敗したのである。さらに、この浪人一年目に緑内障を患い右目のほとんどの視力を失った。まだ左目の視力が残っていたため、それほど大きなショックは感じなかったものの、母親が泣いている姿を見るのが辛かった。そして二浪目に手術をして、三浪目に中央大学法学部への進学を決めた。
「法律家になりたいという目標がありましたので、もっと勉強をしなければならないと思っていた矢先に左目の視力を失いました。大学2年生の後半です。23歳の時でした」
緑内障は視神経が障害を受けて視野が徐々に欠けていく進行性の病気である。手術を終え、眼帯を外した時の初瀬のショックは言葉にできないほど大きかった。
「両親は僕が生まれてすぐに離婚しているんです。兄弟がいないので、母子2人の家庭で育ちました。それなのに視力を失い、なんのために法律家を目指して中学から6年間も私立の進学校へ通ったのか……。僕は今までの人生の全てを失い、母親の期待や夢までをも奪ってしまったような気がしました」
あまりにも強い喪失感に襲われ隣のエキストラベッドで寝ていた母親に向かって「死にたい。死にたい」と子どもの頃のようにわんわん泣いた。
そんな初瀬に「代われるものなら私が代わってあげたい。死にたいなら、いっしょに死のう」という声が優しくて、この母親を死なすわけにはいかないと思った。
「手術後は何も見えなくなっていました。もちろん文字が読めない。人の顔もわからない。ご飯を食べることも、歯を磨くこともできなかった。歯ブラシに歯磨き粉を付けられないんですよ。病院の食事はおにぎりにしてもらい、出来たことと言えば話をすることくらいでした。この先にひとつも楽しいことがないように感じられて、何のために自分は生きていくのだろうと……」