それに僕は浪人していたので出遅れています。高校時代の友人が弁護士になったとか、公認会計士に合格したとか、どこそこの省庁だとか、一流企業に就職が決まっていくんですね。それを聞かされるのが辛かった。そんなときは「俺はいったい何をやっているんだろう」と酷く落ち込むんです。他人の成功している話は聞きたくなかった。町を普通に歩いている人が羨ましかった。もともと母子家庭で育っていたので「なんで俺ばかりがこんな目に遭うんだ」と余計に強く感じていたのではないでしょうか。他人の目が憎かったことも正直ありました」
柔道を再開
人生を好転させた勇気ある一歩
周囲の友人たちの就職が決まり始めるなか、初瀬だけが1人取り残されたようになった。当面の目標に卒業を掲げ、目の不自由な生活にも慣れてはきたものの、気が付けば自分だけが進路も何も決まっていなかったのだ。
再び絶望の淵に落ち込みそうな時に友人に勧められたのが視覚障害者柔道だった。アテネのパラリンピックで視覚障害者柔道をテレビで見たというのが理由だ。
「みんな進路が決まっている。自分も何かをやってみよう。」視力を失い、鬱屈し、全てに積極性を失っていた初瀬が決断した。
この勇気の一歩が人生好転の機となった。
日本視覚障害者柔道連盟に問い合わせたところ、「11月に大会があるから出てみたら」と勧められた。それが国内最高峰の全日本視覚障害者柔道大会だった。
「あのときは仲間たちに出ることを勧められました。出なきゃ視覚障害者柔道のことがわからない、出るのが理解する一番の近道だと言われ、よし出ようと。その直後から高校時代の柔道部の仲間が大会出場の準備を手伝ってくれたのです」
失ったと思っていた人生に一縷の望みを懸けた戦いである。初瀬のチャレンジは大学の生協に行って「柔道着を下さい」と言うところから始まった。
視覚障害者柔道は両者が組み合ったところから始まる。久しぶりに組んだ時にもすぐに体が動いた。健常者が相手でも対等に戦えたのである。もともと対人競技なので目で相手の動きを追っていたのでは間に合わない。視力を失っても足のちょっとした動きや体重移動の変化など、相手の動きを察知して反応することができた。健常者と勝負できるのは柔道しかないと初瀬は思った。それが嬉しかった。