「先生、僕もう一度ラグビーが出来ますよね」という三阪の問いかけに、「できる」と答えてくれる医師はいなかった。
「はっきり言ってしまうと2度と歩けるようにはならないでしょう。明日からは車いすで生活するためのリハビリを始めます」
転院後、初診を受けた三阪を待っていた言葉が本稿冒頭の告知である。
リハビリを続けながらも、先の見えない将来に2度自殺を考えた。
そんなときだ。作業療法士から「車いすでやるラグビーがあるよ」と聞かされた。
えっ!? 車いすのラグビー? バスケじゃないの? 車いすでどうやるの? と驚いた。翌日そのビデオを見せてくれることになった。
「車いすじゃ芝の上はよう走らんし、手の握力も1~2なのに、ボールが転がったら、どう扱うんやろ」と怪我して以来、初めて気持ちが高ぶっていることに気が付いた。
「初めに見た時は体育館が写っていたので『あれ?』って感じでした。ボールもバレーボールみたいやし、ぜんぜん違うやん!って思ったんです。でも車いす同士がガツンと当たって、これは凄いと思って釘付けになったんです。見ているうちにやってみたいと思って、先生に面白そうですと言うと『大阪でもチームが立ち上がるらしいから行ってみなさい』と勧められました。退院後、2週間くらいで大阪チームの立ち上がりに呼んでもらったのが、車いすラグビーとの出合いです」
障害者のするスポーツだと舐めていた三阪は、練習が始まって2~3分で「腕があがらない」と音をあげた。さらに選手たちがあまりにも器用に車いすを操ることに衝撃を受けた。
この時期、並行して車通学を認めてもらい布施工高に復学し1年遅れで卒業した。
「このままでいいはずがない」
ニュージーランド留学を決意
だが、卒業した三阪は車いすラグビーの練習や試合には顔を出すものの、夢中にはなれず、それ以外は積極的に人に会おうともしなかった。ほとんど引きこもりと同じ状態になってしまったのである。なんとなく時間が経ち、毎日を過ごすうちに1年が過ぎようとしていた。だがこの頃である、「このままでいいはずがない。何か自分からアクションを起こさなくては」と鬱屈した思いが、ふつふつと湧き出してきていた。
そんな時に車いすラグビーがパラリンピックの種目だと知った。自分に甘えた環境を打破したかった三阪は、最初に見たビデオがニュージーランドの試合だったこともあって、「ニュージーランドに留学したい」と思った。
引きこもりからニュージーランド留学までの心の変化をこう振り返る。