2024年11月22日(金)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2013年1月23日

 まず広東省という土地が選ばれた意味である。そこで習は、「改革開放は現代中国の命運を決定づける要の政策であり、勇気をもって難題に取り組み、危険な早瀬を渡らなければならない」と発破をかけているのである。まるで往年の鄧小平を思わせる行動だけに、改革開放の生みの父を意識した視察と位置付けられたが、それだけではない。

12月の習近平の広東省視察に
ずっと付き添った汪洋

 12月7日から11日まで広東省のあちこちを見て回るまでの間、ずっと習に付き添い、2人のツーショットがあらゆるメディアでクローズアップされた人物がいる。汪洋広東省党委員会書記(当時)である。習が最初の視察の地に広東省を選び、この視察にずっと汪を同行させて彼に注目を集めさせたのは、習体制が試運転を終えた後には、汪が主要なプレーヤーになることを示唆しているとも考えられたのだ。

 広東省という土地は、昔から進取の気質が強く、また首都から遠いという地理的な条件も手伝い、比較的変化を受け入れる土壌がある土地と理解されている。

 換言すれば、中国が何かを取り入れるときの実験場的な意味さえ持つのである。

 改革開放の成果が広東の深圳で最初に花開いたのも決して偶然でもなく、現在の中国経済が直面している行き詰まりと構造転換という生みの苦しみは、広東省がすでに2007年に経験してきたことでもある。

進取の気質が強い広東省で政治改革を実施

 そして、この広東省という最前線を、変革が求められている時期に任されて最も新しい政治改革を行うという挑戦を行ってきたのが汪洋という人物なのだ。

 中国共産党の今後が「政治改革」にかかっていることは、いまや誰の目にも明らかだ。そして07年、その変化の最前線に送り込まれた汪洋は、改革開放のために広東省は「刹出一条血路」(命がけで血路を切り開け)と号令をかけたのだった。

 事実、広東省で汪洋が行った改革は、その言葉に違わぬものであった。


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