事件には伏線があった。昨年末から劇場や自宅に無言電話がかかってくるようになった。電話は1日中、鳴り止まない日もあった。フィーリン個人のメールアドレスがハッキングを受け、Facebookのサイトは書き換えられた。そして、数日前から自宅マンションでも変調があり、車のタイヤの空気が抜かれるなどの被害が出ていた。
襲撃は、フィーリンが、ボリショイ劇場総支配人のイクサノフに何度も「子供たちが心配だ」ともらしていた直後に起きた。
イクサノフは、現役を退き、モスクワのもう一つの芸術の殿堂「ダンチェンコ劇場」で芸術監督をしていたフィーリンを引き抜いた張本人だった。翌日、劇場のトップとして、報道陣からコメントを求められたイクサノフは険しい表情をして言った。
「フィーリンは筋を通す男で、団員の中でもちゃんと準備ができていなかったり、公演でちゃんと演じられないと彼が判断すれば、演目から外していた」
犯行後、無言電話はとまった。イクサノフはそのことも告げ、「彼のプロフェッショナルな仕事ぶりが、事件に関係しているのは間違いない。犯人の目的は劇場の土台を壊すことにある」と断言した。
ロシア芸術の殿堂で相次いだ醜聞スキャンダル
18世紀末に作られ、歴代の皇帝が贅沢の限りを尽くして築き上げたボリショイ劇場は、ロシア芸術文化のシンボルだった。ソ連時代には政治色も帯び、独裁者スターリンも度々、壇上で演説を行った。特にバレエ団は「白鳥の湖」などのレパートリーで世界的に有名となり、ダンサーの亡命を恐れた共産党指導部は「政治的に不安定な」者を海外公演に同行させなかったなどの逸話も残る。
ボリショイの芸術監督は、海外を含めた全公演の責任を負い、220人の所属ダンサーをどの演目の配役に振り分けるかを決める立場にあった。
フィーリンが、才能とプライドあふれる一流のダンサーたちの指導者に就いてからというもの、ボリショイは、不祥事に見舞われていた。
就任1週間後、副監督を務めていたゲンナージー・ヤニンは、本人の合成わいせつ画像がばらまかれ、辞任に追い込まれた。その数ヶ月後には、男女のトップダンサー2人が指導者と対立し、「創造の自由」を求めて、サンクトペテルブルクの格下の劇場に去った。
パリのオペラ座バレエ団、イギリスのロイヤル・バレエ団と共に世界三大バレエの1つに数えられるボリショイ・バレエで、配役を決める争いが熾烈を極めるのは当然のことだった。時に、嫌がらせやダンサー同士の罵りあいがあったとしても、それは最高レベルを保つためと周囲から受け止められた。